カリフォルニア州サンフランシスコと日本
日本というシステム(文化、法律、国の制度など)と米国カリフォルニア州サンフランシスコというシステムの最初の接触は?、そしてフィリップ・ディックに与えた影響は?
1860年(安政7年)、条約批准のための遣米使節団を乗せ、勝海舟が艦長を務める「咸臨丸」がサンフランシスコに向け江戸湾を出航しました。12この頃から日本とサンフランシスコの公式な関係がはじまります。3
咸臨丸3(かんりんまる)は、幕府海軍が保有していた木造軍艦で、旧名(オランダ語名)、Japan(ヤパン号。ヤッパン号、ヤーパン号)。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味するそうです。後述する『高い城の男』にも易経が主要なプロットとして登場します。
なぜ他の都市ではなくサンフランシスコなんだろう。
咸臨丸に関して他にどんな図書や論文があるかな?
易経を調べてみよう。
サンフランシスコは米国の加州3(カリフォルニア州)にあります。アメリカ大陸には16500年前にベーリング地峡3を渡って人類が到達しましたが、カリフォルニア州には13000年前の遺跡がみつかっています。3西暦1500年代にスペインからの探検隊が入りはじめ3、1769年以降スペインから宣教師や軍隊が送り込まれました。3
ウィキペディアのカリフォルニア州3の記事では、日系人について下記のように解説しています。
カリフォルニアはハワイと並んで、日本人と関係の深い米国の州のひとつである。古くはジョン万次郎、福澤諭吉、勝海舟から、この地を訪れた日本人は多い。(中略)
大戦前の移民の出身地は、圧倒的に山陽地方(山口県・広島県・岡山県)および九州地方北部が多く、その理由として、かつては「山陽道は旅人の往来が多く、他所への移住に抵抗感が少ない地域であるから。」とされたが、「この地方は中世以来水軍(西洋的・近代日本の軍事、旧日本海軍、現在の海上自衛隊)の活動が顕著で、鎖国が解かれ(開国してから)再び出国ラッシュとなったから。」と云う説もある。このためか、かつては「アメリカ日系人の標準語は広島弁である。」とまで言われた。(中略)
日系1世は、資源に乏しく貧しい日本で生活苦にあった貧困層がやむを得ず移住せざるを得なかったような経済難民的で、苦労して現在の地位を築き上げてきた功労者といえるが、アメリカ社会には同化しにくく、他の移民集団と同様にリトル・トーキョーに代表されるエスニック・タウンを形成する傾向がある。(中略)
2世以降は父祖の地としての日本に興味はあるものの、それ以上の感情は持たず、思考や行動はアメリカ人的である。ただ2世は1世の親と生地という2つの文化に自己を引き裂かれるというアイデンティティ・クライシスを経験することが多く、日系アメリカ人文学のテーマとして描かれることが多い。(中略)
戦後移民は米軍人妻(戦争花嫁)や、成功を目指して渡米した人が多い。ロッキー青木やショー・コスギが代表例である。この集団は個々に分散して、1つのエスニック・グループとしては形成されていない。(中略)
新移民はバブル景気以降の日本の「国際化」(=英米化)を受けて、アメリカで生活することを選んだ人たちである。(後略)
カリフォルニア州ロサンジェルスには全米日系人博物館4があります。
1962年に発表された『高い城の男』では日系サンフランシスコが主要舞台として登場しますが、著者フィリップ・K・ディック3(1928ー1982)は当時30代半ばで、バブル前の日本人のイメージから創作していると考えられます。ディックは生涯の多くの時期にカリフォルニア州(主にサンフランシスコ)に在住しており、日本人や日系人について他の地域の米国人よりは詳しかった可能性もあります。
なお、ディックは50代に亡くなるまで5回結婚と離婚を繰り返しましたが、(6ケ月、9年、6年、6年、4年)結婚相手には日系人はいないようです。
米国や諸外国など他にはどこに日本人街があるのかな?
サンフランシスコの日本人街はなぜリトルオーサカ?姉妹都市にもなっている理由は?
サンフランシスコはカリフォルニア(全米)でどのような位置づけ?
ディックの結婚観は作品に反映されているかな?
カリフォルニア州には日本と姉妹都市関係を結んでいる100以上の地域がありますが、2015年、大阪市とサンフランシスコは、慰安婦記念像の撤去をめぐって対立し、姉妹都市を解消しました。3
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