イスラームから観た「世界史」
第2章 ヒジュラ
ムハマンドの誕生
西暦6世後半、アラビア半島にはアラビア人およびローマによりパレスチナを追われたユダヤ人が住んでいました。双方ともセム語族系で、旧約聖書に登場するアダムの子孫アブラハム1と妻のハガルの間に生まれたイスマイルの子孫とみなされていました。ユダヤ系以外は多教徒でした1。
【ムハマンド(=モハメット573-632年)】1 聖徳太子1(574-622年)と同じ年代のメッカの人で、孤児でしたが叔父に育てられました。25歳の時に雇主である15歳ほど歳上の未亡人女実業家ハディージャと結婚し、25年後に妻が死ぬまで他の妻は娶りませんでした。
【アラー】 著者は中年の危機ともなぞらえていますが、40歳の頃思い悩んでいたモハメットは啓示を受けたと言い、絶対神に帰依する考えを主張しはじめます。神はアラビア語でラー(lah)、Alは英語のTheに相当し、アラー(Allah)は英語のThe Godに当たります。多神教の中でのA godではなく、ギリシア神話の最高神ゼウスのようなトップでもなく、”あまりに包括的で普遍的な存在であるがゆえに、いかなる特定のイメージや、属性や、有限の観念とも結びつけることができない” いわば真理とでもいう概念と言えます。
【イスラーム】1(isurāmu) アラビア語で「自身の重要な所有物を他者の手に引き渡す」という意味を持つaslama(アスラマ)という動詞の名詞形であり、神への絶対服従を表します。モハメットはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーフに対して己の全てを引き渡して絶対的に帰依し服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼びました2。
ヒジュラ - マッカからマディーナへ
【ヒジュラ】 メッカの1では多神教の観光や、飲酒、賭博、売春など娯楽ビジネスがさかんで、マホメットの主張に実業界が反発したことと、妻ハディーシャや庇護者の叔父アブー・タリーブが亡くなったことなどから、後にメディナ(アラビア語で「預言者の町」の短縮)1)と改名されるヤスリブに移住しました。
移住のことをアラビア語でヒジュラ1といい、イスラム歴では移住のあった西暦622年をヒジュラ元年とします。
ウンマ - イスラーム共同体の誕生
【ウンマ】 ヤスリブ(メディナ)は内戦状態にあり、公正で誠実な第三者の調停による平和を望んでいました。“ヒジュラ以前のモハメットはここの信者を導く説教師にすぎなかった”のですが、これ以降は“彼の裁定を仰ぐ共同体の指導者”となりました。ヤスリブ(メディナ)はイスラムの町になり、同族との絆を断ち切って移住してきたムスリムを受け入れるウンマと呼ばれる共同体が誕生しました。他の地域ではすでに確立していた裁判、立法、政治、医師、教師、将軍などが裁定するような問題が、モハメットの裁定を仰がれるようになりました。
マッカ軍との闘争 - バドル・ウフド・塹壕の誓い
モハメットの出身部族は、メッカ(=マッカ)のクライシュ族1で、元々、明けの明星(金星)の神を氏神にしていた3強力部族でした。クライシュとはサメを意味するキルシュという語が元であり、他者を捕食するが自身が捕食されることはないサメの圧倒的な強さを指し示しているといいます[2]。現代においても、ヨルダン王国[3]やモロッコ王国[4]などではクライシュ族の末裔を国王としています。
一神教を布教するモハメットの首に懸賞金をかけたり、逆にムスリムがメッカの隊商を襲撃したり(財産も事業も失ったメッカからの移住者の経済的な問題もあり)、双方が敵対していましたが、バドルの闘いではムスリム軍が3倍の人数のメッカ軍を破りました。ウフドの闘いではムスリム軍がやはり3倍の人数のメッカ軍と戦いましたが今度は敗北。メディアのまわりに塹壕を掘って迎えた闘いではクライシュ族が撤退、最後まで攻撃していた同盟部族のクライザ族はメディナで処刑されました。以降、イスラムへの改宗者が増えました。
ウンマの発展 - 改宗を促したもの
【コーラン】 キラートと呼ばれる独特の発声法で各人各様に詠唱するそうです。筆者は“言葉の意味を理解できないものにさえ感動を引き起こす”と記しています。
キラート♪仏教でもお坊さんが抑揚をつけて歌うようにお経を読むね。
struggle。🐢「あわわわわって」イメージ。頑張る。虫とか亀が上を向いて足をバタバタさせている様子が思い浮かぶんだけど。
【ジハード】 「聖戦」や「暴力」を意味するものではなく「奮闘努力する」というニュアンンスがあるといい、筆者は英語のstruggleという用語を当てています。大義のための奮闘努力において、「必要があれば」武装することもまた、神聖化され是認されると考えられていました。
ムハマンドの死
第3章 カリフ制の誕生
伝承学者とイスラーム版『聖書物語』
口承伝承学者イブン・イスハーク(704-765)『預言者伝』
第一巻: 時の始まりから洪水まで
第二巻: アブラハムから出エジプトまで
第三巻: イスラエル王国の興亡
第四巻: ペルシャの諸王(Amzonリンク)『タバリーによるシャーナーメ: 古代ペルシャ諸王の歴史ものがたり』 zアブー・ジャアファルッ・タバリー (著), 座喜純, 岡島稔 (翻訳) 上巻、下巻
初代カリフ - アブー・バクル
【カリフ】 アラビア語でハリーファ(Khalifa)は「代理人または後継者」の意味。初代カリフ、アブー・バクルはモハメットの親友で娘婿。モハメットの死により背教した部族を討伐する一方、メディナでは謙虚、質素かつ公平にふるまいアラビア半島をとりまとめました。
後継者問題とアリー
【シーア派】 マホメットの娘婿で兄弟同然に育ったアリは後継者を自任していましたが、悩んだ末、初代カリフとしてアブー・バクルを受け入れました。その時点でウンマが必要としているのは30代のアリの情熱ではなく60代のアブー・バクルの堅実な判断力と考えられたのです。ただ、アリの支持者はアリ党(アラビア語でシーア・アリ)と呼ばれ、のちに、アリの子孫を正当な後継者と考える1シーア派になりました。
第2代カリフ - ウマル
【第2代カリフ、ウマル】 アブー・バクルがカリフに就任して2年後に亡くなる際、後継にマホメットに娘を嫁がせた初期の信者ウマルを指名し、アリの支持を得て、ウマルが第2代カリフに就任しました。
「ジハード」と侵略戦争 - サーサーン朝の滅亡
【サーサーン朝ペルシア】 3世紀頃から存在したゾロアスター教を奉じる大国1でしたが、東ローマや中央アジアのトルコ系遊牧民族、突厥1との争いや、内紛で疲弊していました。イスラム化をすすめようとする第2代カリフ、ウマルは、4日間にわたるカーディスィーヤの闘いで、象兵を攻撃する戦法によって、象に乗った6万のサーサーン朝ペルシア軍を、ラクダに乗った3万のアラブ軍で破りました。
この20年後、サーサーン朝最後の皇帝は、第4代正統カリフ・ウスマーンの時代に逃亡先で殺され、サーサーン朝は滅亡しました。
最後の皇帝の息子ペーローズ3世1は唐へ逃れ、皇帝の庇護のもと亡命王朝を組織し、イラン方面の将軍となりました。この頃の唐の皇帝は、則天武后1の夫であった高宗1です。
【エルサレム】1 ユダ王国の首都、イエス・キリストの処刑地、モハメットが霊的体験をした場所として、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となっています。
西暦638年、ウマルは、当時ビザンツ帝国の支配下にあったエルサレムをも得ました。主として下記の3つの理由から非キリスト教徒をはじめとしたエルサレム住人はほとんど抵抗しませんでした。
- イスラム教を強制しなかったこと
- 非キリスト教徒が収めるべき人頭税は、それまでのビザンツ皇帝におさめられてきた税金より安かったこと
- ビザンツのキリスト教徒に対する宗教実践への干渉がなくなり、自由な宗教実践ができるようになったこと(モスリムにとってはキリスト教徒の宗派による儀式や信条の微妙な違いは関与に値しなかったため)
イスラム共同体の拡大
ウマルは略奪を許したが庶民の不動産を奪うことは許さなかった上、庶民が自分の土地を守って戦うのではなく、君主が雇った傭兵が中心であったので庶民の抵抗はありませんでした。
シーア派とイマーム
【初代イマーム、アリー】1
【イマーム】1 アラビア語で「指導者」、「模範となるべきもの」を意味する語。元々礼拝の指導係程度の意味でしたが、カリフを輩出できなかったシーア派では、カリフを政治的指導者、イマームを精神的指導者と区別し、宗教共同体にとって特別な存在である「最高指導者」としています。
【スンナ派】1 スンナ(始祖ムハマンドが示した行動規範)に従うべきと考える一派で、今日のムスリム人口の9割を占めます。
「ジハード」の恩恵
【ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤ1世】1 ムアーウィヤの父は当初イスラム教開祖マホメットに反対していたメッカの裕福なエリート層でしたが、イスラームが力を持ち始めると改宗しました。ムアーウィヤはアラブ化とイスラム化をすすめました。
イスラムでは不信心者に対する戦争を「ジハード」として正当化したため、帝国の辺境地域は絶えず戦争状態でした。これは、帝国を拡大させるほか世界を平和(イスラーム)と戦争(イスラーム以外全て)の2つの状態にわけるイスラームの理論と合致し、(イスラームの)正義に対する共通の敵は、アラブの部族間での抗争ではなく団結につながりました。また、戦利品の5分の1を租税収入としたので中心部を増税なく安定させることになりました。
アラブ化とイスラーム化の進展
【アラブ化】クアラルーン(コーラン)は他の言語で表現すれば意味が変わってしまうと、アラビア語を公用語としました。文書による統治(法整備)がすすめられました。
【イスラーム化】改宗は強制されませんでしたが、就職の機会や非ムスリムに課される人頭税よりムスリムの慈善税(ザカート1)の方が安かった場合などがありました。
イスラムの始祖マホメットは、盲人を癒したイエスや紅海の水を割いたモーセのように超自然的は奇跡は示しませんでしたが、三分の1の劣勢でも戦闘に勝利したり、辺境での戦争に勝利し続けていることが、神の恩寵と考えられました。
第6章 アッバース朝の時代 737-961 (H120-350)
格差の拡大とアラブ優先社会の矛盾
フェニキア人やローマ人、ゲルマン民族などの侵略の歴史があり文化的な一体感は少なかった北アフリカや、セムイ語族として旧約聖書に登場する物語を共有していたエジプトやレヴァント(地中海東沿岸)レヴァント1は容易にアラブ化・イスラム化されましたが、インド・ヨーロッパ語族であったペルシア人はアラブ化(特に原語をアラビア語化すること)に抵抗しました。また、社会が安定すると貧富の差や社会階層の区分が生まれました。
- アラブ人を両親とする純潔のムスリム
- 片親がアラブ人のムスリム
- 非ムスリム
- 非ムスリムを両親とする非アラブ人のムスリム
- 一神教の非ムスリム
- 多神教信者(実質的に法的権利はなし)
アッバース朝革命 ー ハーシム派とアブー・ムスリム
【アブー・ムスリム】(並波悉林)1 ウマイヤ朝に不満を持つシーア派とペルシア人の不満を背景に、ウマイヤ朝に反乱を起こし勝利。ウマイヤ朝は善の色として白をシンボルカラーにしていましたが、ペルシャでは白は弔いの色(死の色)とみなされていたのでアブ・ムスリム側は黒をシンボルカラーにしたそうです。現代のタリバーンも黒をシンボルカラーとしています。アブー・ムスリムは、カリフは始祖マホメットのハーシム家の末裔とすべきと主張するハーシム派で、イスラムの始祖マホメットの叔父の子孫アル・アッバースをカリフとしました。
【アッバース朝初代カリフ、アル・アッバース】1 “サッファーフ(as-Saffāḥ)”は「惜しみなく注ぐ者」「財を与える者」または「血を流す者」という意味。天然痘で死亡。
【アッバース朝第2代カリフ、アル・マンスール】(阿蒲恭払)1 初代カリフの異母兄。母はベルベル人奴隷。“マンスール”は勝利者[1][5]」「神の助けを受ける者[1][5]」の意味。
- ウィキペディア(日本語)アブラハム
- 井筒俊彦『イスラーム生誕』中公文庫、2012年、改訂3版、125-126頁、136-137頁
- 太田敬子. “イスラームの誕生と拡大”. 北海道大学大学院文学研究科. 2014年3月16日閲覧。
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