『The Boleyn Inheritance』 Philippa Gregory

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『ブーリン家の姉妹4  悪しき遺産  The Boleyn Inheritance』 Philippa Gregory

ブーリン家の姉妹4 悪しき遺産The Boleyn Inheritance1 2006(集英社文庫 加藤洋子訳)上巻、下巻

◆ヘンリー8世の4番目の妃アン・オブ・クレーヴス
◆5番目の妃キャサリン・ハワード
◆アン・ブーリンの兄(弟)ジョージ・ブーリンの妻ジェーン・ブーリン
3人の視点で交互に時に宮廷を描きます。ジョージ・ブーリンは妻ジェーンの証言で姉アン・ブーリンと共に処刑されましたが、後年ジェーンはアン・オブ・クレーヴスおよびキャサリン・ブーリンの侍女となります。

王位継承ライバル

「王はなぜいまになってレディ・ポールを処刑したのでしょう?」
「彼女が反乱を企てるとは彼も思っていないでしょう。だが、北部で起きた反乱の網的は、旧教を復活させることで、彼らはポール一族を再び王位につけようとしています。一族は熱心なローマカトリック教徒で、信望が篤く、ヨーク家の末裔で、プランタジネット王家の家系です」
「彼女はプランタジネット王家の最後の王女で、家柄としては彼よりもまさっている」

ランカスター系・ヨーク系の後継者

OTSUKA.Yukiko

Wikipedia

 

リンカーン・グリーン

リンカーン・グリーン2
は、イギリス中部のリンカーン3で染められる色。紀元前の住居跡が残る古い町で、Witham川4の川幅が広くなった畔にあり、ケルト語の「黒ずんだ池」という意味の言葉が町名の語源なのだそうです5

Wikipedia List of colors

Amazon/Disny

ウォード(フランス語パステル)5と呼ばれるアブラナ科の植物で染められる濃い青の上から更にイエロー・ウォードと呼ばれる植物で染められます。コベントリー・ブルーやケンダル・グリーンのように都市の名前がつけられ、中世のこの都市の代表的な色としてウール(羊毛)の布が染められました。最初にこの名前が文献に出現するのは1510年代の記録6で、グレーな気分を吹き飛ばしてくれる7とあります。
エリザベス1世にささげられたエドマンド・スペンサーの『妖精の女王』の5には、木こりの服としてリンカーン・グリーンのジャケットに銀のレースの縁取りと記されています。
18世紀にはロビン・フッド5の仲間たちが来ている服の色とされましたが、ロビン・フッド自身は赤い服を着ていたとする伝承もあります8。カーマインを使うリンカーン・スカーレットと呼ばれる赤の方がカーマインというより高価な素材を使って染められます。

ロビンフッド』ディズニー1973年9

Lady in waiting

厳密には下記などの地位がありますが、一般的にはまとめてLady in waitingと呼ばれます。貴族の夫人をLady何某と呼ぶところからきています。

Privy Chamber(特権的近侍) –洗顔や着替えなど日々の要望に対応する係
Chamberers(近侍)– 部屋の掃除やベッドメーキングなど、その他の仕事をする係
Maids-of-Honor(名誉侍女) – 後ろに従い公式場面ではドレスの長い裳裾を持ったりする係。歌や踊りなどで楽しませたりするが、“Mother of Maids”(女官長)などに統括される。
Ladies in Waiting (女官)– 宮廷での夫の地位や、本人の経験から仕え、他の侍女などと連携する

アン・オブ・クレーブスのLadies in waiting(1540年の年齢)

Great Ladies of the Household

Mary Arundell, Countess of Sussex
➤メアリー・アランデルは、サセックス伯ロバート・ラドクリフの3度目の妻になる前はジェーン・シーモア妃のa maid of honorでした。結婚後もジェーン妃が亡くなるまで侍女であり、アン・オブ・クレーヴス妃とキャサリン・ハワード妃のthe Great Ladies of the Householdの一人として仕えました。
➤サセックス伯との間に王の名付け子のヘンリーを含め2人の息子をもうけましたが、夫の死後、ヘンリー・フィツアランの3度めの妻として再婚しました。

Frances Brandon, Marchioness of Dorset(23)サフォーク公とメアリー・チューダーの娘
➤ヘンリー8世王の姪。フランセスはドーセット侯爵ヘンリー・グレイと結婚し3人の娘をもうけました。男児もありましたが早世しました。
フランセスは、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世の宮廷で重きをおかれていました。
➤父と異母弟が亡くなると、彼女がサフォーク公の称号を引き継ぎ女公爵となったので、自動的に夫がサフォーク公を名乗ることになりました。
➤フランセスは、娘のジェーンと、ノーザンバランド公ジョン・ダドリーの息子ギルフォードとの結婚および、メアリー女王の玉座を狙ったたくらみに積極的にかかわったと信じられていますが、証拠はありません。エドワード6世の死後、メアリー女王がジェーン・グレイから玉座を奪い返した際にはフランセス・ブランドンは投獄されていません。夫と娘は処刑されましたが彼女は逃れることができました。
➤1554年に彼女は自分の主馬頭のアドリアン・ストークスと再婚し宮廷から引退しました。3人の子をもうけましたが皆、早世しました。
➤シーンにて、娘のキャサリン(ジェーンの妹)との結婚の許しをハートフォード伯に与えましたが、その結婚の悲劇的な結果を見ずに亡くなりました。

Lady Margaret Douglas(25)ヘンリー9世の姪、スコットランド王未亡人マーガレットの娘
➤マーガレットは、ヘンリー8世の姉の二度目の結婚による娘で、スコットランド王ジェームズ5世の異父妹です。母がスコットランドから逃れてヘンリー8世王の庇護下のイングランドの滞在中に生まれました。
➤15歳でメアリー王女の女官長に任命され、たった3年後にはアン・ブーリンの侍女になりました。
➤マーガレット・ダグラスは認められなかったロマンスで有名です。ノーフォーク公の義弟Thomas Howard (1512-October 29, 1537)はロンドン塔で処刑されました。その後、レノックス伯Matthew Stuartと結婚し、二人の息子をもうけました。
マーガレットはメアリー女王のお気に入りでしたが、エリザベス女王には、無断で息子ダーンリー卿をスコットランド女王メアリーと結婚させたので、投獄されていました。

Elizabeth Grey, Lady Audley(43)ヘンリー8世の従妹、第2代ドーセット公トーマス・グレイ娘
➤フランス王と結婚したメアリー王女の侍女としてフランスに渡りましたが、フランス王と死別したメアリーが英国に帰国しても、彼女はアン・ブーリンやメアリー・ブーリンと共に、次のフランス王妃クロードに仕えました。
➤1520年の英仏国王の交流イベント金襴の陣では、キャサリン・オブ・アラゴン妃のアテンダントでした。

Mary Howard, Duchess of Richmond(21)第3代ノーフォーク公娘、ヘンリー・フロッツィ妻
➤従妹アン・ブーリンのmaid of honorでした。ヘンリー・8世王とベッシー・ブロントの庶子ヘンリー・フロッツィと13歳で結婚しましたが3年後に夫が亡くなるまで二人は同居してたことはありません。
➤メアリーは、ほとんど宮廷ではなくケニングホールで暮らしていました。キャサリン・ハワードがケニングホールに送られた時、メアリー・ハワードが一部を取り仕切りました。
トーマス・シーモアとの結婚話も出ましたが、メアリーの兄サリー伯がシーモア家と縁戚になることに反対しました。
➤1546年に父や兄が逮捕された時、彼女は兄の子供達を引き取り、彼らを教育するためにプロテスタントのJohn Foxeを採用しましたが、メアリー女王の時代には、彼女は女王のお気に入りでした。

Eleanor Paston, Countess of Rutland(45)
➤ラトランド伯爵の二番目の妻で11人の子をもうけました。
➤彼女はアン・ブーリンのペンブローク女侯爵就任式に参加し、王とアンのフランス訪問にも随行しました。彼女はアン・ブーリンに仕えていたのかもしれません。彼女はまた、ジェーン・シーモア妃葬儀の主会葬者で、ジェーン・シーモア妃、アン・オブ・クレーヴス妃、キャサリン・ハワードのlady of the privy chamberでした。
➤彼女はアーサー・ポール・プランタジネットの継娘キャサリン・バセットが、アン・オブ・クレーヴスの侍女となるまで、保護しました。

Privy Chamber

Jane Guildford, Lady Dudley(32)初代ノーザンバランド侯爵夫人
夫ジョン・ダドリーとの間に13人の子をもうけました。夫の政治的キャリアが目立った働きをしていないにもかかわらず、彼女はノーザンバランド侯爵夫人として出世し、アン・オブ・クレーヴス妃、キャサリン・パー妃、そしてエドワード6世王の宮廷の女官でした。
夫やジェーン・グレイと結婚した息子がメアリー女王の玉座を狙ったかどで処刑されましたが、彼女自身は許されました。娘のメアリー・シドニーと共に田舎住まいをしていましたが、メアリー女王はロンドンのチェルシーに住むことを許しました。
他の息子たちは、母が亡くなる前にロンドン塔から釈放されたようです。

Susanna Hornebolt, Lady Gilman(37)
➤スザンナの父と兄はヘンリー8世の宮廷画家でした。スザンナ自身も、デューラーが彼女の彩色を購入するなど、イングランドでヘンリー8世の画家として働く前から、写本彩色家、ミニチュア画家としてヨーロッパでは名が知れていました。
➤シーモア家に寄食しヘンリー8世王に仕える両親と共に1522年頃フランダースから英国にやってきました。そして1526年頃、ウェストミンスター宮殿の従者ジョン・パーカーと結婚し、プロの画家としての活動を中止しました。すぐに子供がないまま夫が亡くなり、相ついでジェーン・シーモア妃も亡くなったので、居場所がなくなり金銭的に困窮しました。
➤その後、ワイン業者のやもめ廷臣ギルマンと結婚しましたが、2週間後、ヘンリー王からアン・オブ・クレーヴスへの個人使節(実はスパイ)に任命され、デュッセルドルフで未来のイングランド女王となるアン・オブ・クレーヴスに仕えました。アンはスザンナをchief gentlewomanに任命し、彼女自身の召使としました。
➤カレーの悪天候で結婚が遅れている際「ミセス・ギルマン」はアン・オブ・クレーヴスにトランプを教えました。ヘンリー8世が結婚を破棄するまで、彼女はアン王妃のgentlewoman of the Privy Chamberでした。
➤二児をもうけた後、スザンナはキャサリン・パーの宮廷につかえ、エドワード6世の宮廷まで残っていました。

Isabel Legh, Lady Baynton(44)キャサリン・ハワードの異父姉
彼女の夫はヘンリー8世の何人かの妻の副侍従でした。イザベルは、アン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アン・オブクレーヴス、キャサリン・ハワードに仕えたと信じられています。イザベルは、キャサリン・ハワードが修道院に送られた時、王妃に選ばれた侍女のうちの一人で、ロンドン塔へも供をしています。
後に、キャサリン・パー妃の特別家政官、メアリー女王の家政官にもなりました。

Jane Parker, Lady Rochford(35)アン・ブーリンの義妹、ジョージ・ブーリンの妻
アン・オブ・クレーヴスとヘンリー8世王が肉体関係がなかったと証言しました。また、キャサリン・ハワードの不義を手助けしたことが、キャサリン妃からトーマス・カルペパーにあてた手紙から発覚しました。彼女は悪者として描かれることが多いですが、証言や行動には様々な議論があります。フィリッパ・グレゴリーの小説では、義叔父ノーフォーク公に強要され、早急にキャサリンを身ごもらせようとし、事が露見した時にはノーフォーク公に見捨てられたとの解釈をしています。キャサリン・ハワードと一緒に処刑されるとわかった時に気が狂ったようになったという尋問記録があります。

Catherine St. John, Lady Edgecumbe(65)
Catherine St. Johnは、一度めはSir Griffith、二度めはSir Piers Edgecumbeと結婚しました。
1540年にはアン・オブ・クレーヴスのlady of the Privy Chamberとして記録にありますが、夫は1542年に叙勲されたので、その“Lady Edgecumbe”は別人との説もあります。キャサリン・ハワードにも仕えました。

Gentlewomen in Attendance

Jane Ashley, Lady Mewtas(23)
両親は知られていませんが、ロンドンのJohn Asteleyという織物商人の妹で、1937年に廷臣Peter Mewtasと結婚しました。
ジェーンは、アン・ブーリン妃、ジェーン・シーモア妃のmaid of honorでもありました。
キャサリン・ハワードまたはエドワード王子にも仕えていたと考えられています。

Jane Cheney, Lady Wriothesley トマス・リズリー卿夫人

Elizabeth Seymour, Lady Cromwell(22)ジェーン・シーモア妃の妹
ジェーンがヘンリー王と結婚した際に未亡人であったエリザベス・シーモアは、トーマス・クロムウェルの提案により息子グレゴリー・クロムウェルと結婚し、5人の子をもうけました。

Catherine Skipwith, Lady Heneage(56)
ジェーン・シーモア妃の葬儀に参列し、アン・オブ・クレーヴスに随行、キャサリン・ハワードに仕えました。

Maids of Honor

Dorothy Bray(16)キャサリン・パーの弟の愛人
ドロシー・ブレイは、アン・オブ・クリーヴス、キャサリン・ハワード、そしてキャサリン・パー3人の女王の侍女でした。彼女はキャサリン・パーの弟と、彼がキャサリン・ハワードの侍女Elizabeth Brookeに求愛をはじめるまで、不倫を続けていました。

Catherine Carey(16)王の元愛人でアン・ブーリンの姉妹メアリー・ブーリンの娘
➤メアリー・ブーリンとウィリアム・ケアリーの娘ですが、ヘンリー王の庶子ではないかともいわれています。叔母アン・ブーリンの最期の日々に立ち会ったともいわれています。
➤アン・オブ・クリーヴス妃とキャサリン・ハワード妃のMaid of Honorでした。
➤プロテスタントであったので、メアリー女王の時代は夫婦でドイツに亡命していましたが、従妹(もしかしたら異母妹)のエリザベス女王時代には、Chief Chamber ladyでした。

Ursula Stourton(22)キャサリン・ハワード、キャサリン・パーにも仕えました。

Catherine Howard(19)ヘンリー8世王の5番目の妃、アン・ブリーリンの従妹

メアリー・ノリス(14)アン・ブーリンと共に処刑されたヘンリー・ノリスの娘
メアリーはアン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アン・クレーヴスのmaid of honorであり、多分、キャサリン・ハワードのmaid of honorであったとも考えられます。
イギリス海軍旗艦メアリー・ローズの艦長サー・ジョージ・カリューと結婚しましたが、1545年ヘンリー8世王とともにメアリーがサウス・シー城から見ている前のポーツマス港で軍艦は沈没し、カリューは帰らぬ人となりました。

Anne Bassett(20)
アン・バセットはフランスで教育を受けた後、15歳の若さでジェーン・シーモア王妃の6人のmaids of honorの一人となりました。アン・オブ・クレーヴスやキャサリン・ハワードの宮廷でもmaid of honorのでした。王妃の死後、従妹の元で王の次の結婚を待ちました。ヘンリー8世がアンに興味を持っている様子から、王の愛人か未来の花嫁になるのではないかと噂されていましたこともありました。

Mistress of the Queen’s Maids

Mother Lowe、Margaret (or Anne) Foliot

Mrs. Stonor, 旧姓Elizabeth Chamber
ロンドン塔中尉の妻ミセス・ストナーとして知られるエリザベス・チェンバーは、ヘンリー8世王の全ての妃に仕えました。mother of maidsとして若い侍女をしつける仕事をしていました。
アン・ブーリン妃がロンドン塔に幽閉された時も、任命された5人の侍女に含まれていました。

キャサリン・ハワードのLadies in waiting(1540年の年齢)

アン・オブ・クレーヴス妃の宮廷から継続。
Lady Margaret Douglas(25)ヘンリー9世の姪、スコットランド王未亡人マーガレットの娘
Mary Howard, Duchess of Richmond(21)ノーフォーク公娘、ヘンリー・フロッツィ妻
Mary Arundell, Countess of Sussex

Margaret Gamage, Lady Howard(25)第2代ノーフォーク公と後妻アグネスの息子の妻
彼女はアン・ブーリン妃のmaid of honorでした。
彼女は、義弟のトーマス・ハワードと王の姪マーガレット・ダグラスの秘密結婚の承認になりました。後にトーマス・ハワードはロンドン塔で処刑され、マーガレット・ダグラスは修道院に送られました。
彼女はキャサリン・ハワード妃の侍女でした。女王が逮捕された時、ハワード夫妻も反逆の証拠隠滅のかどで捕えられましたが、のちに釈放されました。

Agnes Tylney, dowager Duchess of Norfolk(63)キャサリン・ハワードが育ったランベス館の主
➤15歳で宮廷デビューし、20歳でサリー伯(将来ノーフォーク公を継ぐ息子の称号)であったトーマス・ハワードと結婚しました。
➤アグネスはキャサリン・オブ・アラゴンがアーサー王子と結婚している半年間仕えていましたが、のちに、キャサリンはアーサー王子の妻であったと、ヘンリー8世王とアン・ブーリンの結婚に有利な証言をしました。アグネスはエリザベス王女の代祖母になりました。
➤スコットランド王ジェームズ4世とイングランドのマーガレット王女(ヘンリー8世の姉)の結婚に臨席し、また、フランス王ルイ12世とインゴランドのメアリー王女(ヘンリー8世の妹)の結婚にも臨席しました。夫亡き後は、ノーフォーク公未亡人としてランベスで暮らしましたが、彼女の館にはつてをもとめた大勢の一族の若者が送り込まれました。
➤キャサリン・ハワードに連座して、若者の監督不行き届きで逮捕されましたが翌年釈放されました。

Ursula Stourton, Lady Clinton(22)
アン・オブ・クレーヴス妃の宮廷から継続。キャサリン・パーにも仕えました。

Ladies of the Privy Chamber

アン・オブ・クレーヴス妃の宮廷から継続。
Eleanor Paston, Countess of Rutland(45)
Isabel Legh, Lady Baynton(44)キャサリン・ハワードの異父姉
Jane Parker, Lady Rochford(35)アン・ブーリンの義妹、ジョージ・ブーリンの妻
Catherine St. John, Lady Edgecumbe(65)

Gentlewomen of the Privy Chamber

Anne Parr, Lady Herbert(25)後のキャサリン・パー妃の妹
➤母のモード・パーは、キャサリン・オブ・アラゴン妃のlady in waitingで、妃にちなんで長女をキャサリンと名付けたと推測されています。アンはジェーン・シーモア妃のmaid of honorとなりました。
➤アンは、1538年にウィリアム・ハーバートと結婚し、レディ・ハーバートと呼ばれるようになりました。ただし、アンの夫の庶子と結婚した、エリザベス王女やエドワード王子の世話係のレディ・ハーバード (Blanche Milborne)とは別人です。
➤レディー・ハーバートとしてアンは、キャサリン・ハワードの宝石係でした。最初の子供の出産で一時宮廷を離れましたが、女王が修道院幽閉を経てロンドン塔に送られた時も付き従いました。
姉キャサリン・パーがヘンリー8世の6人目の妃となった時に彼女も宮廷に戻りました。
晩年はメアリー王女の侍女でした。

Elizabeth Oxenbridge, Lady Tyrwhitt
エリザベスはジェーン・シーモアに仕えていましたが、彼女の死後サセックス伯爵夫人メアリー・アランデルの元で育ちました。ポーツマスで他の侍女らとヘンリー王の駆逐艦見学の際、Sir Robert Tyrwhittと結婚しました。
キャサリン・ハワードが女王になった時、エリザベスはgentlewoman of the privy chamberに任命され、Anne Parr Herbertが出産のため宮廷を下がっている際、一時的に宝石係となっていました。彼女はまた、キャサリン・パーのlady of the privy chamberでした。

Susanna Hornebolt, Lady Gilman
アン・オブ・クレーヴス妃の宮廷から継続。

Chamberers

Katherine Tylney 第2代ノーフォーク公未亡人アグネスの姪、ブランドン家の遠縁
➤義理の姉妹のマリン・ティルニーやドロシー・バスカヴィル、マーガレット・バネット、アリス・ウィルクスと共に、キャサリン・ハワードのランベス館の仲間。キャサリン・ティルニーとアリス・レストワードはキャサリン・ハワードが王妃になった後chamberersとなりましたが、マーガレット・モートンはランバス館に残りました。
➤キャサリン・ハワードがトーマス・カルペパーとの情事の間、侍女たちはレディ・ロッチフォードとキャサリン・ティルニー以外はbedchamberから締め出されていました。
➤キャサリン・ハワードの過去が明るみに出た時、ランベス館での事を特にアグネス夫人がどのように監督していたか、ハンプトン・コートやリンカーンでの逢引について、など尋問されました。キャサリンは早朝に女王が誰かと会っていたのは見ていないと主張しましたが、キャサリン・ハワードの結婚前の堕落した行状を王から隠していたことで有罪となり、ロンドン塔に収監され私財を没収されました。とはいえ、未婚女性として、土地や小作人など多くの私財を保持していたわけではありません。
➤いつまで収監されていたかは明確ではありませんが、アグネス夫人が翌年に解放されたように、彼女もそう長くは収監されていなかったと考えられます。キャサリンは後にジョン・ベイカーと結婚しました。

Margaret Morton,  旧姓Margaret Woodford キャサリン・ハワードのランベス時代の仲間

Maude Luffkyn
キャサリン・ハワード侍女。トーマス・カルペパーが女王の寝室に入ろうとするを見たと証言した召使。

Joan Acworth(21)ウィリアム・ブルマー未亡人(ジェーン・ブルマー)
ノーフォーク公未亡人アグネス・ティルニーに仕えていました。
キャサリン・ハワードがヘンリー8世王妃になった時chambererとなり、結婚前のスキャンダルについて証言しました。数か月投獄されましたが、キャサリン・ハワードの処刑後に解放されました。

Alice Wilkes ノーフォーク公未亡人アグネス・ティルニーの召使
キャサリン・ハワードが結婚する前に、フランシス・デレハムと一緒にいたこと証言します。キャサリンが王妃になった後、宮廷にやってきてchambererになりました。

Ladies and Gentlewomen Attendants

アン・オブ・クレーヴス妃の宮廷から継続。
Jane Guildford, Lady Dudley(32)初代ノーザンバランド侯爵夫人
Jane Ashley, Lady Mewtas(23)
Jane Cheney, Lady Wriothesley トマス・リズリー卿夫人
Elizabeth Seymour, Lady Cromwell(22)ジェーン・シーモア妃の妹
Catherine Skipwith, Lady Heneage(56)

Margaret Howard, Lady Arundell(25)キャサリン・ハワード姉

Maids of Honor

Lady Lucy Somerset(16)ウスター伯サマセットとヘンリー王元愛人エリザベス・ブラウンの娘
キャサリン・ハワード妃のmaid of honor。チャプイス駐英スペイン大使は、キャサリン・ハワードの処刑後、王が結婚の考えている3人のうちの一人と報告しているとか。
後のキャサリン・パー妃のLady in Waitingでもあり、妃の義理の息子ラティマーと結婚しました。

Anne Bassett(20)
アン・オブ・クリーヴス妃の宮廷から継続。

Elizabeth Fitzgerald(13)エドワード4世妃エリザベス・ウッドッウィル妃の前夫との息子の子孫
➤父フィツジェラルド卿が汚職容疑で投獄されたロンドン塔で死亡した後、彼女は親戚のエリザベス王女と一緒に宮廷で育ちました。異母兄トーマス・フィツジェラルドも5人の叔父たちと共にアイルランド蜂起の首謀者として処刑されました。
➤その後、エリザベス・フィツジェラルドはメアリー王女の元に送られ、幼い弟はエドワード王子と共に育ちました。トーマスの処刑によって残された兄ジェラルドは11代キルデア伯爵を継ぎアイルランドに戻りました。
➤彼女が10歳の頃、サリー伯ヘンリー・ハワードのソネットにうたわれ、麗しのジェラルディンというニックネームで呼ばれるようになりました。彼女は若すぎたためサリー伯の恋人とはみなされませんでしたが、将来、宮廷で男性たちに注目されるであろうことを示しています。
➤エリザベスはキャサリン・ハワードのmaid of honorであったかもしれません。
また、エリザベス一世女王の即位直後にladies in waithingの一人であったとの記録があるそうです。

メアリー・ノリス(14)アン・ブーリンと共に処刑されたヘンリー・ノリスの娘
メアリーはアン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アン・クレーヴスのmaid of honorであり、多分、キャサリン・ハワードのmaid of honorであったとも考えられます。
イギリス海軍旗艦メアリー・ローズの艦長サー・ジョージ・カリューと結婚しましたが、1545年ヘンリー8世王とともにメアリーがサウス・シー城から見ている前のポーツマス港で軍艦は沈没し、カリューは帰らぬ人となりました。

Elisabeth Brooke, Marchioness of Northampton(14)キャサリン・パーの弟と結婚
母方の叔母は、夫の公然の元カノ ドロシー・ブレイ、父方の叔母は、奔放で名を馳せて詩人の夫トーマス・ワイアットに離婚を申し立てられたエリザベート・ブルックでした。夫とは当初、他の男と駆け落ちした元妻アン・ブルキエとの結婚が解消しないまま、公然とした不倫関係でした。
彼女自身もヘンリー王の妃候補と噂された時期もありました。
エドワード6世の宮廷では、宮廷第二位の夫ノーザンプトン侯爵の夫人として、行事では女王の役割を受け持つこともありました。

Other Ladies Listed by Agnes Strickland as Maids of Honor

Mrs. Garnyshe、Mrs. Cowpledike、Mrs. Catherine Stradling

Mrs. Stonor [Mother of Maids]、Dorothy Bray キャサリン・パーの弟の愛人
アン・オブ・クレーヴス妃の宮廷から継続。

四旬節

どういうわけか王は四旬節を勝手に早めてしまった。(中略)十二夜からこっち、贈り物もしてくれない。

➤四旬節とはカトリック教会において、復活祭の46日前(四旬とは40日のことであるが、日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のこと[1]。灰の水曜日は、その前に儀式に使った木の枝で作った十字架などを燃やすことから。復活祭は3月22日から4月25日のいずれかの日曜日(年によって一定ではない)なので、四旬節は2月4日から3月10日のいずれかの日に始まるそうです。5
➤「40」という数字は旧約聖書の中で特別な準備期間を示す数字であったそうです。例えば、モーセが民を率いて荒野を彷徨ったのは40年、ヨナニネヴェの人々に40日以内に改心しなければ街が滅びると預言、イエスは公生活を前に40日間荒野で過ごしました。
元もとは初期の教会で行っていた40時間の断食のことで、この期間中は断食といわずとも節制をします。古代世界では秋の収穫が初春には少なくなることが多かったため、春に入る時期には食事を質素なものにして乗り切らなければならなかったところからきているそうです。
➤四旬節に入る前に祝宴を行う習慣は、キリスト教と無関係な異教の慣習とも結びついて、カーニバル(謝肉祭)として残っています。

➤十二夜とは、12月25日から12日目、一連のクリスマス祝いの最終日にあたる1月6日の夜のこと。日本の「松の内」のようにクリスマスの飾り付けは十二夜を過ぎて片付けてはいけないという言い伝えがある。クリスマスケーキもそもそもは十二夜に食べるものだったが、1870年代、十二夜の祝い事が常軌を逸するほど華美を極めるようになり、ヴィクトリア女王が禁じて、ケーキだけはクリスマスに食べるようになったそうです。クリスマス期間はなぜ十二日なのかというと、「三人の王」が生まれたばかりのイエスを見つけるのにそれだけかかったとされているからとか、昔はクリスマス期間がもっと長かったが、祭日を少なくして農民を早く働かせるためだったといわれています[1]
➤シェイクスピアの喜劇『十二夜』は、クリスマス期間の最期の日に演じるために書かれたと言われていますが、内容的に十二夜に関することが出てくるわけではありません。女性が男性のふりをするなど、十二夜やカーニバルで、主人と召使、男女などが服装を取り換えてどんちゃん騒ぎをする無礼講の雰囲気を残した作品と言われています。5特に、男性の役者が女性を演じていたシェイクスピアの時代に、更にその役者が男装の女性を演じるというユーモアが組み込まれているとの解釈もあります。

翻訳者紹介参考文献

翻訳者紹介参考文献
英国王妃物語』森 護 1994河出文庫
英国の貴族 遅れてきた侯爵』森 護 2012ちくま文庫
王妃の闘い ヘンリー8世と6人の妻たち』ダイクストラ好子 2001未知谷

 


 

  1. Wikipedia(English)The_Boleyn_Inheritance
  2. Wikipedia(English)Lincoln_green
  3. Wikipedia(English)Lincolin
  4. Wikipedia(English)River_Witham
  5. ウィキペディア(日本語)リンカン(イングランド)
  6. Maerz, Aloys John; Paul, Morris Rea (1930). “A Dictionary of Color” (1st ed.). New York: McGraw-Hill: 69 plate 23 color sample J4; p. 198.
  7. Noted in The Journal for Weavers, Spinners, and Dyers, 158
  8. Noted in Robert Nares, James Orchard Halliwell-Phillipps and Thomas Wright, A Glossary, Or, Collection of Words, Phrases, Names and Allusions… (1901), s.v. “Lincoln green”.
  9. ウィキペディア(日本語)ロビン・フッド_(1973年の映画)

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