日本人のための世界史

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カラコルム

どの教科書にも書かれていない日本人のための世界史

どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史 宮脇 淳子 (著) 5つ星のうち4.1 /192個の評価
モンゴル学者による、ユーラシア大陸の草原史からの視点で西洋史と東洋史を見た世界史

はじめに

➤ヨーロッパやロシアだけでなく、インドのムガール帝国はモンゴルの末裔で、トルコのオスマン帝国からたどることができる突厥は遊牧民族です。

第2章 モンゴル帝国から「一つの世界史」は始まる

歴史から消された国・モンゴル帝国とは何か

イスラム教徒にとっては捕虜は身代金と交換するため大切に扱うものでしたが、モンゴル軍は捕虜を殺しつくしました。

もう少しでドーバー海峡にまで至ったモンゴル軍

君主のオゴデイが急死したため、全軍に引き上げ命令が出て、ドーバー海峡まで領土にすることはできませんでした。

当時ルーシと呼ばれていたロシアの諸都市も攻略されました。

モンゴル軍が世界最強の軍隊であった理由

遊牧民の戦争は馬も兵器も食糧も支給されない代りに略奪品が分配されます。軍隊の規律は非常に厳格でしたが、略奪品分配は公平でした

トルコ系部族に見られる「祖先が狼」という説話

古代トルコ語では、タタルは漢語では韃靼となります。

モンゴル系高原の遊牧明をどうやって組織化した?

紀元前220年頃誕生した匈奴の時代から、遊牧民連合では、最高君主でも他の部族長の領民に直接支配を及ぼせないので、万人長、千人長、百人長などに組織化しました。紀元前1世紀頃の『史記』によると、人数は自己申告でしたが多く申告すると兵数の供出する義務がありますが、略奪品も拠出兵数に応じて分配されました。

チンギス・ハンには「四頭の駿馬」と呼ばれる4人の家来たちの他、命令をどこまでの遂行する「四匹の犬」とよばれる家来もいます。
ハーンの直轄領民は4つにわかれて「4大オルド」よばれ、各オルドの帳殿には39人の后妃が分かれて住んでおり、チンギス・ハーンは順番にオルドをまわっていました。ただ一人、金国の皇帝宣宗1の皇女(公主)1は別の場所に住んでいました。
モンゴル人に使えた著者がペルシア語で記した1260年『世界征服者の歴史』には、チンギス・ハーンには500人の妃妾あり、子孫1万人を超えると記されています2。征服された部族が縁戚になるため女性を献じたのです。チンギス・ハーンの子を産んだのは第一后妃と第二后妃のみと言われており、献じられた女性は、息子や孫たち、親族に再嫁したと思われます。
チンギス・ハンが世界中で最も子孫を残した人物というオックスフォ-ドのDNA研究もあります1。モンゴルに征服された部族がハーン一族に女性を献じてその子孫が部族の高位を締めたであろうことや、各部族内で高位者の子孫が多いであろうこと、騎馬民族は広い地域に拡散したことなどからも想像できます。

空前の繁栄を極めた「パクス・モンゴリカ」の真実

ハーンは、都市の周辺の草原オルドに暮らし、大宴会などの際にだけハーンは都市にやってきました。職人や商人が移動する宮殿に出張しました。

カラコルム

都市は公邸や公式迎賓館、公式議場みたいなものかな?

第4大モンケ・ハーン時代のカラコルムには非キリスト教寺院が12、イスラム礼拝堂が2、キリスト教会が1あったとか。

第3章 中国に多大な影響を与えた元の支配

初の統一政権・秦が行った7つの政策

  1. はじめて「皇帝」という称号を使いました。
  2. 10月を期初とする、全国初の暦を採用しました。
  3. 「県」をまとめて36の「郡」を置く「県郡制」を採用しました。
  4. 物質の単位、車の軌道、通過を統一しました。
  5. 公認の漢字三千三百とその読み方を定めました。
  6. 秦以外の文字の書物を没収して焼く「焚書」を行いました。
  7. 都市の城壁を破壊し、武器を没収し、富豪を首都に移住させました。

第4章 欧州全土を征服寸前だったモンゴル軍

十三世紀のヨーロッパはどんな状況だったか

フランス王フィリップ2世が、大陸のイングランドの領地のほとんどを獲得しました。

待ち望まれた救世主「プレスター・ジョン」とは?

ローマ教皇の希望を打ち砕いたグユグ・ハーン

カルピニ生まれのフランシスコ会修道士が教皇の使節としてモンゴルに派遣されました。第3代皇帝グユク・ハーンの返書を教皇に献じましたが、もちろん、洗礼を受けて教皇に服従するなどということは否定され、逆に臣下となり朝貢ちょうこうせよとの返信でした。

近代資本主義の萌芽はモンゴル帝国にあり

チンギス・ハンの孫イル・ハン国創始者がヴェネチア共和国と結んだ通商協定には、貿易商人を保護する義務などが設定されており、パクス・モンゴリカとよばれた平和な時代でした。

モンゴル第5代皇帝にして元の世祖フビライ・ハンは、世界最初の政府の信用紙幣「不換紙幣1」を発行しました。

ペストはモンゴル高原のげっ歯類が媒介する病気で、東西の大規模交流によってヨーロッパにもたらされました。

第5章 ロシア帝国は「金のオルド」を受け継いだ

愛国的な歴史家が書き換えた現在のロシア史

チンギス・ハーンの長男から始まるジョチ・ウルスの後継は、オルドの柱に金箔が貼られていたため「黄金のオルド」「金帳のハン国キプチャク・ハン国」と言われます。その征服範囲はキプチャク高原と言われます。

「タルタルステーキ」の語源を遡ってみると・・・

古代トルコ語で「他の人々」を意味したTatar(タタル)1が語源で、元々モンゴル人がタタル部族に属していましたが、チンギス・ハーンが栄進すると、自らモンゴルと名乗るようになりました。
中国語では韃靼、蒙古と書かれます。
ラテン語では、地獄のことを「タルタロス」と言い、十三世紀ヨーロッパでは「地獄から来た者」という意味でタルタルと呼びました。

タルタルステーキは、生の馬肉を粗みじん切りにして薬味とまぜて食べるもので「蛮族風ステーキ」という意味ですが、遊牧民族には馬肉を生で食べる習慣はありません。

モスクワはビザンツの継承国家という嘘

ロシア語のツアーリはラテン語でカエサルの意味でしたが、モンゴル支配時代)には、最初はカラコルムの大カーンに、次いでサライに君臨するジョチ・ウルスのハンを指して「ツァーリ」と称され始めました。1

シベリア語の語源「シビル」は「鮮卑」と同義

第6章 清を建国した満州人とは誰なのか

太宗の5人の皇后は、全員がモンゴル人

なぜ満州人は「旗人」と呼ばれたのか

鑲黄旗清朝では、北京に住んでいた漢人を追い出し、紫禁城の周りを8つの区画に区切って住まわせました。全ての満州人は8つの集団に属していて、黄、白、紅、藍の4色と、縁取りのある鑲旗または縁取りのない正旗の8種類の旗を目印としました。皇帝の直属の正黄旗、鑲黄旗、正白旗を上三旗と呼びました。1

満州人からすれば、モンゴル人はもとの主君筋

ヌルハチからラスト・エンペラーの溥儀に至るまで、清朝皇帝には、漢字だけでなく満州語とモンゴル語の名前があります。

圧倒的少数派だった満州人の統治の仕組み

漢人の数十分の一しかいない満州人は旗人として北京に住みました。日本の江戸幕府の「旗本」にあたります。全国十八の要所に配置された兵士および家族は「駐防八旗」といいますが、死亡時には埋葬のため北京に戻されました。

第7章 露清関係の真実と「最後の遊牧帝国」

「左翼」と「右翼」にわかれたモンゴル人

モンゴル語で固定家屋のことをバイシンと言いますが、語源は百姓バイシンです。元々漢人農民を指す言葉でしたが、彼らが住む家屋のことも言うようになりました。中国語では明代に音から「板升」という字を当てられ、日本で「ばんしょう」と呼ばれるようになりました。

継承争いで自滅し、絶滅したジューンガル人

軍の主力は騎馬兵、その中核は弓手、槍騎兵ですが、火縄銃手は「大砲の人」という意味のモンゴル語で「プーチン」と呼ばれました。

第8章 大日本帝国の登場、そして満州国誕生へ

自ら進んでロシアの属国になった朝鮮の高宗

朝鮮の第26代王、高宗の閔妃は日本を見限ってロシアと結び、日本人に殺害されました。政敵の高宗の父、大院君の関与も疑われています。高宗はロシア公使館に逃げ込んで統治しました。

満州を占領していたロシアから権益を引き継いだ日本

日露戦争の後、陸軍は満州の軍事占領を主張しましたが、伊藤博文は、「講和条約によってロシアから譲り受けた権利は遼東半島租借地と鉄道だけであり、満州は我が国の属地ではない」と、撤兵させました。

日露の密約が、モンゴルを南北に分裂させた

日露協約では南モンゴルで権益を分け合っていました。清朝が滅亡した際、モンゴルとチベットは独立をはかり、ロシアの承認を得ようとしましたが、ロシアが日本に遠慮して北モンゴル部分しか承認しませんでした。3

中国人のナショナリズムが満州事変の原因である

溥儀皇帝は中華民国総統の袁世凱から年金を得て禁紫城で暮らせるという条件を出していましたが、軍閥闘争の中で「別の人間が結んだ条約など知らん」と追放されました。また、日本の投資に対する補償もありません。前政権での約束や外国との条約を反故にするのが当たり前というのは、国家を継承した意識がないということです。

日本の敗戦によって崩壊した蒙古連合自治政府

チンギス・ハンの30代子孫である徳王が主席でしたが、漢人600万人に対してモンゴル人は30万人でした。

終章 今こそ日本人のための世界史を書こう

日本人は自虐史観をどう克服すればよいのか

大東亜戦争終結後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)が日本占領政策の一環として短期行ったといわれる日本国民に対する再教育計画をWar Guilt Information Program(戦争責任広報計画)といいます1。筆者宮脇淳子は、この情報工作により日本人はすっかり洗脳され、反日的な国々の主張に騙されていると述べています。


 

 

  1. 衛紹王 – Wikipedia
  2. 血縁者は1600万人?チンギス・ハンの子孫とその功績を解説 – レキシル[Rekisiru]
  3. 地政学からみるモンゴルの概況

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