『中世ヨーロッパ生活誌』ロベール・ド・ロール

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『中世ヨーロッパ生活誌』ロベール・ド・ロール

中世ヨーロッパ生活誌―LE MOYEN AGE 単行本(1981)邦訳発行2014/10/1, Robert Delort (原著), 桐村 泰次 (翻訳)5つ星のうち4.4 /5個の評価

初版は1972年。1981年版では初版に対して大幅に削除・加筆されています。

第一章 人間と環境

気候の変動

太陽から地球に到達する中性子は地球磁場によって変動します。磁場の強さは中世の1000年間で12%下がり、それでも現在より22%も上回っていました。

今より紫外線や太陽からの放射線が少なかったってことね。1

 

中世の気候は海流や、寒冷期、温暖期などが繰り返され、現在とは、また1000年単位の幅で見ると必ずしも気候が一定とは限りません。

植生

気候状態によって森林も現在とは違う様相を示していましたし、木の種類など森林の様相によって家畜や野生動物の種類も変わってきます。

動物相

ウサギがブリテン島に見られたのは12世紀頃だけです。ヨーロッパの森林には狼がおち、人間と日常的に接していましたが、海に隔てられたブリテン島には狼はいませんでした。

人間の技術と環境

中世から馬に蹄鉄をつけるようになり、石ころの道でも土の道でもしっかり地面をけることができるよになりました。

住居

中世の家は木の家で、教会や城塞などが石積みでしたが、森林が減少するにつれ、石積みが一般化しました。フランスのルーアンには中世の木造建築の風景が残っています。

衣服

14世紀頃までは衣服に男女の区別はあまりありませんでしたが、次第に性別や社会階層や個性を示すものになりました。

食物

農民は粗末な食事でしたが、王侯貴族はグルメでした。シャルル6世の料理長タイユヴァン(1326-1395)2は『ル・ヴィアンディエ』を残しました。
6皿24品という当時のフルコースメニューが残っています。
第1のサービス(去勢鶏の澄んだスープ シナモン風味、雌鶏の香草風味、新キャベツと狩猟肉)
第2のサービス(上等の焼肉、孔雀のセルロ添え、去勢鶏のパテ、兎と去勢鶏)
第3のサービス(山鶉のトリモレット、鳩の蒸し焼き、狩猟肉のパテ、ゼリーと肉の薄切り)
第4のサービス(焼き菓子、クレーム・フリット、洋梨のパイ、アーモンドの砂糖漬け、胡桃と生洋梨)

フランスには彼の名を冠した有名なレストランもあります。3

中世フランスの食―『料理指南』『ヴィアンディエ』『メナジエ・ド・パリ』 単行本 –004/5/1
森本 英夫 (著)

中世人の身体的特徴

初期中世は天然痘のためにA型人口が減り、今日の西欧の多くの地域でそうであるようにO型人口が多数派になりました。
1348年のペスト流行の際にはO型人口が多く犠牲になりましたが、B型人口の多いハンガリーは強い抵抗力を示しました。

中世の人々は現代人と変わらない身体的特徴を持つ例の一つとしてファン・アイクの「アルフィーニ夫妻の肖像」を挙げています。この肖像画は、弟ジョヴァンニ・デ・アッリゴ夫妻の結婚証明の意味を持つとされてきましたが、現在は、兄ジョバンニ・デ・ニコラオ夫妻の妻の一周忌の追悼のための絵だとされていますことを訳注にて言及しています。

死亡率と平均寿命

平均寿命が短い社会では、今日の老人支配の文明からは理解できないくらい、人々は若く早熟で、12歳の娘、14歳の王、17歳の主婦などが愛や憎しみなど極端な感情を発露しているといいます。

第二章 精神構造と社会生活

時間感覚

聖職者は多くの、決められた時間での義務がありましたが、時間の計測はあいまいでした。四旬節(復活祭より前の40日)4は、昼食抜きになるので、普通は9時課=none(現在の午後3時頃)の食事を切り上げて前倒しで行うようになりました。近代英語のnoon,afternoonという言葉はその名残だそうです。

日本語の、八ツ時に食べていた「おやつ」みたいだね。

暦と祝祭日

死が迅速で頻繁であった中世のキリスト教社会では、世俗的な先への《投資》はあまり意味はありませんでした。《目前の今》でなければ、死後への《投資》が大多数の人の支えになっていました。

中世人の世界像

『出エジプト記』にある《胸飾り》に十二種類の石は、あらゆる象徴の根本と考えれられました。
→赤瑪瑙、トパーズ、エメラルド、トルコ石、サファイア、ダイアモンド、ヒアシンス、瑪瑙、紫水晶(アメジスト)、緑柱石、縞瑪瑙(オニックス)、碧玉

アフリカにすむ人々は肌が桑の実(mures)のように黒いことからムーア人(Moures)と呼ばれました。

日常生活の振舞い

キリスト教会が言うように、もし神が選ばれた人々をあらかじめ知っていたのだとすれば、「善を成そうと悪を成そうと、そのために何かが変わるわけではない」という『運命論』という解釈も出てきた。

地獄と悪魔への恐れ

ドイツでは自分を狼と思いこむ《狼妄想》が見られましたが、研究の結果、飢饉と関連があることがわかったそうです。

キリスト教的家族

《結婚の秘蹟》(カトリック教会に認められた、愛し合う一対一の男女が生涯にわたる忠実を誓う結婚)5が市民権を得たのは12世紀頃ですが、高位者にとっては、実質的には家族や氏族同時の結合であることは変わりませんでした。

シャルルマーニュ王(カール大帝)は、王位継承権の有資格者が増えることを恐れ、娘たちを結婚させず貸し与える方式をとったと述べています。ウィキペディア(日本語版)にも、娘を容易に結婚させなかったことや、娘や妹と近親相姦の関係にあった噂についての研究文献が紹介されています。6

教会法ではローマ法よりも女性が保護されていました。男性は婚約時に保証金を出し、婚約破棄の場合はその4倍を払わねばなりませんでした。また夫は自分が亡くなった後も妻が生活していけるよう、財産の3分の1から半分を《寡婦給与財産》としなければなりませんでした。また、処女を奪った償いまたは感謝のしるしの《朝の贈与Morgebgab》という贈与もありました。
ローマ時代から引き続き持参金7の習慣はありましたが、これは、妻の実家の相続分の前渡しであり、婚姻関係が解消された時は女性に戻されました。なお、女性が修道院に入る場合は「神の妻となる」として持参金を収めました。
夫は、持参金も含めて二人の財産を独断で運用できましたが、一方で、夫婦の共同生活中で得た、または夫が相続した、不動産は妻の許可なしに処分できませんでした。

《クルトワジー》の発展

女性に対して礼儀正しく振る舞う宮廷風作法。

1100年~1300年は、物質的環境が改善されました女性分娩の死亡率は変わらなかったので、女性人口が男性人口に比べ減少しました。人口200とすると男性:女性の割合は12世紀には110:90、13世紀は105:95、15世紀フィレンツェ110:90、トスカーナ138:62であり、南フランスでクルトワジーがより発展しました。

ただ、15世紀ニュンベルグでは男性100:女性121、バーゼルでは男性100:女性124.7 であり、ドイツでは男性優位が保持され近代に至っています。

結婚についての考え方

女性の平均結婚年齢は、13世紀英国では24歳、16世紀英国では20歳、フィレンツェやトスカーナでは19歳以前で16歳以前も34%にのぼっています。

夫の年齢は平均して妻より14歳上。修道女以外の女性の90%が22歳以前に結婚していたのに対し、男性で42歳以前に結婚している人は75%、10%の男性は生涯独身のままでした。

夫婦愛を貫いた為政者の例を挙げています。
フランス王フィリップ4世8(37歳で妻を亡くした後は再婚しませんでした)とジャンヌ・ド・ナヴァール9。(死因が不審なので夫に暗殺されたとの説もあります)
ドイツ皇帝マクシミリアン1世10(マリ・ド・ブルゴーニュ妃の死後ビアンカ・マリア・スフォルツァ妃11と再婚しましたが関係は悪く、妃の死後「二度と結婚しない」と言ったそうです)とマリ・ド・ブルゴーニュ12
ドイツ皇帝カール5世13(仲睦まじかった妃の死後は、死ぬまで再婚せず黒の喪服を着続けたそうですが、結婚前や妃の死後には何人もの母の違う庶子があります)とイザベル・ド・ポルテュガル14

子供の地位

『贖罪早見表』なるものがあったそうです。この中で赤ん坊を圧死させる若い母親が多かったことも紹介しています。

神の望みたもう秩序

農奴の息子からサン・ドニ修道院長になりフランス王ルイ6世、7世の二代にわたって政治顧問となったシュジェ15が紹介されています。ウィキペディア(日本語版)では、キリスト教人名辞典、新カトリック大事典編纂委員会の出典として、裕福な農民層の家庭に生まれたと記されています。また法王グレゴリウス7世シルヴェステル2世も卑賎の出自と紹介しています。

第三章 働く人々 農民

西欧の中世は一面の守が何世紀にもわたる労作業によって切り開かれ、耕地化されていった世界として評されるとしています。全人口の90~95%が農民だったそうです。

鉄の普及と動力の改良

鉄はまず戦士用にまわされ、農具にはあまり使われませんでした。包丁もなく火にかけることがきない鍋で調理する世界でした。が、次第に冶金術が進歩し田舎でも鍛冶屋が増えていきました。金属加工の親方は中世の農民社会では特等席を占めていると言っています。

風力や水力の利用は12世紀以降にはじまりましたが、領主などが自分が資金を投じた新しい装置を使わせようとしたので、農民と紛争が起きることもありました。ある修道院の回廊は領地の農民から押収した石臼が敷きつめられた石畳になっているといいます。

牛の牽引システムも改良されました。ギリシャ・ローマ時代は首に牽引具をつけたため呼吸困難を招くことがありました。それが肩甲骨にかわり、さらに額や角に変わり、効率的に力を利用できるようになりました。
また、横一列で何頭もの獣にひかせると、外側の獣たちは斜めに引くことになり力の多くが無駄になるので、縦に二列でつなぐ方式に牽引具が改良されました。

村落共同体の形成

ローマ時代のヴィラの跡地に家々が建てられ、それが村(ヴィレッジ)の起源です。

農村の景観

森から集落に向かって以下のような構成となっています。
森→未開墾の荒れ地→草地→牧草地→丘に広がった畑(小麦・葡萄・果樹園など)→こまめに手入れされた畑(菜園や果樹園)→家々

歳時記

1月Januaryは、ローマ神話の二つの顔を持つヤヌス神(Janus)からきています。行く年とくる年を表しているのでは、と筆者は推測しています。

クリスマスと冬至、復活祭と春分、聖ヨハネ祭と夏至など、キリスト教徒の暦は農作業に影響を与える季節の重要な日付と一致しています。冬がやっとあけて生き物が復活するよろこびが、キリスト教のイベント復活祭に象徴されます。

社会的分化

ローマ時代は異民族を征服して奴隷としましたが、なかなか外地征服がすすまなくなってきたこととキリスト教は改宗者を奴隷にすることを禁じたことで、奴隷の価格が高騰しました。主人は既存の奴隷に定住土地を貸し与えて家族を持たせることを許すことによって、奴隷自身は自分の農作物も作れるようになって、結婚し家族を持つことが出来るようになりました。主人の方は、その子、いわば無料の奴隷を入手することができるようになりました。奴隷も高齢になると解放され自由民となることも増えました。主人にしてみれば養う費用の方が高くついたからです。

自作できる土地や子や孫などの家族があれば放り出されても少しは安心できるね。

7世紀頃までは西ゴート人に侵略されたスラブ人などが奴隷の供給源になっており、“奴隷(slave)”の語源となっています。

 

第四章 戦う人々 騎士たち

騎士階級の形成と発展

8世紀から10世紀に《臣従》と《忠誠》の儀礼が定着しました。

多くの家臣をかかえるようになった大貴族は、事実上の独立を享受するようになり、臣下の方でも複数の君主に誓約をするようになります。本書には最も多い例として43人の君主と主従関係を結んでいた人が紹介されています。

時代が下がるにつれ、貴族たちの富や権力、領地の規模などの違いによって階層的な差が生まれたにもかかわらず、戦争や騎馬試合において同じ《軍旗》(バナー)のもと同じ《陣営》(コロニー)で戦ったことによって、結束力が強められました。

騎士階級を危機に陥れたもの

傭兵の台頭や相続による分家などから騎士階級の収入は減少しました。その中で羊毛生産や小麦輸出などのビジネスで成功したものや、法曹貴族などの新興貴族がありましたが、ほとんどの一般貴族は、小さく不効率な領地経営からの収入が減るばかりでした。それらの貴族は領地を寄進し、王族などの大貴族の臣下となりましたが、大規模に効率よく経営できる大貴族との差が益々開きました。

15世紀ルイ11世とアンヌ・ド・ボージューの時代には、貴族たちの多くが領地を寄進し王宮に住まって奉仕するようになっていました。

中世の城塞の生活

当時の人々は頻繁に入浴していました。ただ、体臭ではなく料理などのにおいが残るのを消すために床に香りのある草花を敷き詰めることはありました。

領主たちの日常生活

テーブルにはごちそうを山盛りにして、客や召使が自由に食べれるようにするなど、自らの権威と威厳を保つために、贅沢ぶりを示すことが不可欠でした。

1日の食事の中では昼食が最も豪勢でした。騎士と婦人が交互に並んで着席し、二人づつ同じ鉢から食べました。

トランプは14世紀にインドからドイツに伝わった後、ヨーロッパ中に広まりました。

衣装も豪華になり、染色技術の発達によって、例えば同じ緑でも《陽気な緑》《清純な緑》《明るい森の緑》など呼ばれるような、様々な色あいが出せるようになりました。

こうした好みは地域、性別、年代によって様々な流行を作り出しました。14世紀以降、その変化のスピードも速まり、時代遅れの衣服をまとった田舎の貧しい貴族と、都市や権力の中枢にいる当世風の豊かな貴族は、一見して見分けられるようになりました。

新しい女性感

『小姓ジャン・ド・サンドレの冒険』16アントワーヌ・ド・ラ・サール17が、1456年に、実在の騎士をモデルとして書いたフィクション。13歳のジャンがベル・カズン夫人から理想的な騎士としての教育を受け、熟練の騎士になるまでの成長記。

騎士の叙任と生き様

騎士は狩りを行い、領主や自分の食卓に肉料理を供給しました。体力の劣る女性にもできたのが鷹狩など猛禽類を使った狩りで、兎や鴨などの野鳥を捕えさせました。

騎馬試合の勝者は賞金は報償を得、貴婦人へ栄誉をささげることができました。財産を持たない若者が騎馬試合を渡り歩きました。
有名な例としてペングローブのウィリアム(フランスでは“グリエルモ元帥”といわれる)を挙げています。

(サイト内リンク)Rock you! ウィリアムをモデルにしたミュージカル

武器と防具

防具や武器は大型化し、鎧25キロ、兜5キロにもなりました。馬も大型化して防具が施され、一種の戦車と化しました。

第五章 祈る人々 僧たち

ベネディクトの規則

529年、ベネディクトがイタリアに修道院を建設しました。シンプルで啓発的な生き方を規範に、互いにに監視し合い助け合いながら共住する生き方でした。メンバーは私有財産を放棄し、死ぬまで修道院で清貧と貞潔を堅持した生活をしました。

クリュニュー修道会

修道士の多くは司祭で、労働や知的作業に従事する時間は少なかったものの、世間への窓口は広く、貧しい人々や病人に対する慈善や俗人への教育活動を行いました。

シトー会

白衣の頭巾つきチュニクを着て、鉄の十字架を下げ、粗食で貧しい生活をしました。教会堂も殺風景でステンドグラスや鐘楼もありませんでした。
ただ、イングランドのシトー会は牧羊や水車の活用などで豊かになり、法王や司教が出るまでになりました。

軍事的修道会

11世紀半ばに、エジプトの占領下にあった聖地エルサレムで、南イタリアのアマルフィの人々によりキリスト教信者への事前組織が作られました。その後、巡礼者の安全を守る事を任務とするようにもなり騎士階級からの徴募が行われました。
そして、救護だけでなく防衛を目的とした「テンプル騎士団」「テュートン騎士団」などの修道騎士団が誕生しました。

テンプル騎士団は領地からの収入やオリエントと西洋の金融にかかわるなど裕福でした。財政難にあえぐフランスが、最大の債権者であるテンプル騎士団の壊滅と資産没収を諮ったとも言われ、異端とされ解体させられたので、新入りに対して同性愛が強要したとか、十字架につばを吐くように命じられたなどの噂が広まりました。18

ドミニクスとフランチェスコ

シトー派出身のドミニクスが創設したドミニコ会では、正式の修道士になる前に僧院でしっかり神学を学ぶ見習い期間を経て、その後も生涯、研究や瞑想を続け知性を磨きました。

それに対してアッジシのフランチェスコや弟子は、腰に荒縄を締めて頭巾付きのローブを身に纏い、民衆の中で実践的なテーマを語り、その心を掴みました。

教会と俗世

古代ローマ社会にキリスト教が根を下ろしたときに、ローマ帝国の官僚制を引き継ぎました。司教(フランス語でépiscopat)の語源はギリシア語で都市の行政官episkoposです。ちなみに、行政官の中で州都の行政官のことをギリシア語ではメトロポリタンと言います。
また、異教徒(フランス語でpaïen)の語源が農民を意味するpaganiであることが、農村地帯では土着の宗教にこだわりを持つものが多かったことを示しています。

聖職者の世俗的特権

カロリング時代(1世紀後半頃)には、全西欧の30~40%の土地資産を聖職者が所持し、世俗君主の干渉を受けないという特権を持っていました。その中から中世には大司教や修道院長という特権的高位聖職者が生まれました。

ただし、高位聖職の肩書はあくまで選挙などにより任命されるものであり、相続できるようなものではありませんでした。

学問と教育

シャルルマーニュ帝などは、小教区学校に対し、俗人子弟を無償で受け入れることを要請する他、いくつかの修道院に対しては貴族の子弟のための学校を維持することを要請しています。ただし、これらの学校ではギリシア、ローマ以来の哲学よりも神学の方が重要視されました。

大学の誕生

国際的な名声を確立していたパリで、各僧院から集まった教育者や生徒が集まってユニヴェルシテ(集団、組織などの意味)と呼ばれる教育センターを作って結束したものが大学の起源です。

学生たちは下宿に身を寄せ合って生活していましたが、彼らのために裕福な人々が学寮(カレッジ)を設立しました。特に、ロベール・ソルボンによって設立された「ソルボンヌ」が有名です。

大学入試資格(バカロレア)、教師(フランス語でメートル、英語でマスター)、博士(ドクター)などの呼称は今とほとんど変わりません。

学生は、神学よりも法律や医学などのなるべく高収入の学問に進もうとしました。

異端運動

13世紀はじめに異端審問が登場しました。尋問はドミニコ会士にゆだねられ、容疑をかけられた人々を拷問しました。

十字軍運動の本質

セルジュク・トルコに脅かされていたビザンティンはフランク軍(彼らにとって西欧人は皆フランクでした)にキリスト教徒の連帯を訴えることによって無報酬の援助を期待しました。
西欧でも人口が増加し相続を受けられない男子が増えたことや、法王がキリスト教会をまとめるために異教徒に目をむけさせたことなども、十字軍の背景にありました。

トルコ、アラブ、エジプトといった中近東のイスラム教徒同志が争い混乱していた第一次十字軍の頃は西欧人が成功を収めましたが、イスラム内紛が終息すると西欧人の勝利もたちまち瓦解しました。

第六章 都市の世界 承認・職人・ブルジョワ

貨幣経済の興隆

西欧ではハンガリー以外では金はあまり産出しなかったため、銀貨が主流でした。ヴェネツィアのグロス銀貨、イングランドのスターリング銀貨などが知られています。
国際通貨はビザンティンのビザント金貨やイスラムのディナール金貨が使われていました。イタリアやイベリア半島でオリエントとの交易により金の備蓄量が増えると、フィレンツェのフローリング金貨やヴェネツィアのドゥカート金貨などの金貨が鋳造され始めました。

ヴェネツィアでは、10世紀頃から、航海の資金集めにコメンダ方式が行われていました。出資者は商人に資金を託し、商人(または託された船長)が航海でオリエントなどの遠方から商品を仕入れ、持ち帰った商品を売りさばいた中から、出資額およびプラスαが返還されます。

商人階級の台頭

商人たちは、貴族から領地の余剰品(小麦、羊毛、ワインなど)を買い取る他、カネを貸すこともありました。その担保として宝石や土地、開拓地の独占権などを手に入れ、それを資本としてされに事業を拡大しました。

商人の子弟に求められる教育は、聖職者の支配下にあるものとは全く違い、計算、ラテン語ではなく実際に使われている諸言語、地理など、理性によって測り予見し組み立てる合理主義的精神でした。
この新しい精神は、商人が注文した絵画や建築にはっきりあらわれています。
例えば絵画は、宗教的テーマを平板で紋切り型に描いた伝統的絵画に対し、正確な遠近法を使って写実的に描かれた、自宅に飾るための肖像画が中心でした。

膨らむ城壁の環

都市の人口が増加すると城壁を造り直すことになり、フィレンツェでは6番目の城壁が造られたり、ベルギーのヘントではわずか1世紀半で5回も造り直されたりしています。

ケルンの1ヘクタールあたりの人口密度は600人を超え、現代のパリ(200人程度19)より多かったそうです。1ヘクタールあたりの人口は、当時のパリでは330人程度、ジェノバ900人程度で、その他、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノ、ヘント、ロンドンなどが中世の大都市として挙げられます。
江戸時代の江戸の人口密度は1ヘクタールあたり600人程度、現代の東京都豊島区なら220人程度になるそうです。20

結び

現代には失われてしまったもの。

厳しい自然、バランスの悪い食事、変化の乏しい衣服、短い人生、明晰ではなく神の秩序に従った社会、変革を受入れない態度、働く人が戦う人や祈る人を養っている社会。

利得より品質、会社より兄弟愛が、個人的利得より共同の資産が、企画より運に任せることが、個人より集団が有意に立っている世界(ロベール・フォシェ)

なんと、ついこの間までの日本じゃないか!

動物の歴史 単行本 – 1998/4/1 Robert Delort (原著), 桃木 暁子 (翻訳)5つ星のうち5.0/ 1個の評価
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  20. 100万都市・江戸の人口は世界一だった!?現代とくらべて人口密度が衝撃的すぎる(2) | 江戸ガイド (edo-g.com)

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