明王朝の後宮と物語
明は北宋以来241年ぶりに中原を回復した、史上最後の漢族王朝です。
この王朝では初代太祖、朱元璋の意思が最後まで貫徹されました。
血を絶やさない、外戚専横防止という面では明の後宮は成功しましたが、宮女9千人宦官10万人と言われ膨大な費用を費やしました。
明治時代の日本国は明の君主制をモデルのひとつにしています。一代の間年号を変えない「一世一元」や、臣民を教え諭す「教育勅語」、天皇を称える「万歳」、行政府の呼称「内閣」などがその例です。
陶磁器や料理など高い宮廷文化のレベルも有名です。
ただ、儒教な「嫡庶の別」や「長幼の序」に縛られすぎ、結果的に優秀でない皇帝が玉座についてしまう事態がしばしばおきました。
太祖 貧民出身の朱元璋
中国の歴代皇帝のうち農民出身者は前漢の高祖劉邦と明の太祖朱元璋のみです。
豊臣秀吉と同じように、貧農出身で戦乱を勝ち抜き明の初代皇帝に上り詰めました。秀吉より200年前の人物ではありますが、まだ明が続いていましたので、秀吉も朱元璋のことを念頭においていたかもしれません。
朱元璋こと洪武帝は、臣下を信用せず、宰相もおかずに独裁政治を行いました。糟糠の妻である馬皇后は唯一、光武帝を諫められる人物でした。彼女亡き後も洪武帝は死ぬまで継室皇后をたてませんでした。下流階級出身の馬皇后は纏足もしておらず庶民には敬愛の念をこめて「大脚馬皇后」と呼ばれています。
洪武帝は、明朝の政治方針、礼制、皇族の処遇について述べた『皇明祖訓』1を残しました。
ただ、宦官の国政介入の禁止については記載されていなかったので、明朝の中期以降は宦官の専横が起きたと言います。これについて、もともとの記載を宦官がこっそり削除したとの推測もされています。
明の宮女や宦官に貧民出身者が少なくありませんでした。病気や高齢になると「安楽堂」という病院兼ホスピスに入れられ、死ぬと火葬場「浄楽堂」で焼かれました。
民間の子女に募集をかけて後宮に仕える女性を選ぶ制度がありましたが、妃も血筋や家柄があまり高くない傾向でした。この制度は清代に「選秀女」と呼ばれるようになりました。
後宮の等級は、后妃(淑女)、女官(宮女)、宮人(雑役婦)の三種類です。
「明代の後宮と后妃・女官制度」前田尚美2
后妃は、皇后、貴妃、妃、昭容、昭儀、婕妤、美人 という古典的な序列でした。
洪武帝の陵墓に葬られた46人の妃嬪のうち十数人は殉死を命じられたのものです。
李成桂が高麗王を倒すと、洪武帝(太祖)が朝鮮王代理とし、明の第3代永楽帝、朝鮮の第3代太宗の時代に正式に朝鮮王と認められましたが、藩国の君主夫妻として皇帝夫妻より格下の王、王妃とされました。日清戦争で日本が中国に勝利し朝鮮王朝が中国の藩国でなくなるまで続きます。
建文帝「朝天女戸」
先帝に殉死した女性の父兄を優遇しました。身内の宮女が殉死したおかげで取り立てられた遺族の家は「朝天女戸」と呼ばれました。以後、明王朝では妃嬪や宮女の殉死が制度化されました。
燕王(のちの永楽帝)軍に攻め込まれ南京の宮廷は炎上しました。建文帝は行方不明となり、皇后以下40人ほどの妃嬪や宮女が炎に飛び込み殉死しました。
永楽帝「東廠」
光武帝の第4皇子である永楽帝の生母は馬皇后ではなく、朝鮮半島かモンゴル出身の宮女だったという説もあるそうです。
永楽帝は宦官を中心とする諜報機関「東廠」を設置し、政治に不満を持つものを逮捕するという恐怖政治を支える秘密警察としました。
永楽帝に戦利品として捕まり去勢して献上されたアジア出身のイスラム教徒、宦官 鄭和は武士として大活躍をしました。去勢された男性は睾丸の圧迫痛を感じなくてすむため騎馬戦に向いていると言われていました。
永楽帝が都を北京に移した後、は北方色が強い王朝になりました。太祖朱元璋は南の出身であったので王朝初期は后妃も江南など南方の出身者が多く、北京に遷都した後もしばらくは候補者は南方から集められました。ただ、江南の人々の多くは娘が選ばれて光栄と感じるより、遠く離れた北京に奪い去られると感じたようです。明朝後半期には北京周辺の庶民から選ばれることが増えました。
殉死は生前に指名された者が、次の帝が主宰する別れの饗宴の後に縊死します。永楽帝に指名されていた、朝鮮貢女出身の崔恵妃の乳母が、後に朝鮮に帰国した際に顛末を伝えたので、朝鮮に記録が残っています。
洪熙帝「仁宣の治」
仁宗洪熙帝と宣宗宣徳帝の時代を「仁宣の治」といい、明朝の最盛期とされています。
宣徳帝と皇后
中国のテレビドラマ『大明皇妃』は宣徳帝と章皇后(孫皇后とも呼ばれる)の生涯を描いています。
洪武帝は宦官が学ぶことを禁じていましたが、宣徳帝は宦官を教育する制度を作りました。
天順帝が殉死廃絶
天順帝は自分の死後の殉死を禁じ、この風習は廃絶しました。
成化帝の後宮
成化帝は道教に凝り道士を重用したので、儒教的素養を持つ科挙官僚と対立しました。
成化帝は東廠をさらに強化した秘密警察組織「西廠」を設立しましたが官僚の反発に合い短命でした。ジャッキー・チェンがプロデュースした映画『成化十四年~都に咲く秘密~』(2020)に、西廠の汪直の暗躍が描かれています。
明朝後半の後宮の序列は、皇后、皇貴妃、貴妃、妃、九嬪、才人、婕妤、昭儀、美人、昭容、選侍、淑女の十二等級とされていましたが、永楽年間以降は「婕妤、昭儀、美人、昭容」は実質選定されていませんでした。また、才人は実際には皇太子の妃嬪とされました。正式な階級が未柵封の女性を淑女、その中で寵愛があれば選侍とよばれていたようです。
成化帝の寵愛した万貴妃は、他の妃の子を堕胎させていた悪人とも噂もあるが、中国美術のコレクターの間では、景徳鎮などの磁器の収集やプロデュースの才能について、芸術的センスがあると言われています。
当時の『明史』日本伝には織田信長や豊臣秀吉について荒唐無稽な記述があるといいます。
新☆再生縁-明王朝宮廷物語-滝口琳々 (2009~2018)3清の時代に書かれた古典小説『再生縁』を下敷きに、成化帝の宮廷を舞台とした翻案漫画。
明時代の補子(マンダリン・スクエア)4
一品(文官)鶴(武官)獅子
二品(文官)錦鶏(武官)獅子
三品(文官)孔雀(武官)虎
四品(文官)雲雁(武官)豹
五品(文官)白鷳キジ(武官)熊羆ヒグマ
六品(文官)鷺鶯サギ(武官)彪≒小虎
七品(文官)鸂鶒オシドリ(武官)彪
八品(文官)黄鸝ウグイス(武官)犀牛サイ
九品(文官)鵪鶉ウズラ(武官)海馬≒波間の馬
万歳閣老とは、皇帝に万歳を唱えるだけの無能な閣僚のことをいいます5。
弘治帝の一夫一婦
自主的な一夫一婦で後宮を消滅させました。
正徳帝の豹房
正徳帝は地方で女漁りをする逸話が、京劇『梅龍鎮』別名『遊龍戯鳳』に描かれています。モデルは山西に行幸した時に得た劉美人とか。芥川龍之介『上海遊記』中に鑑賞記が述べられています。
歴代の明帝は象、虎、鹿、鳩、猫など飼育する施設を作っていました。正徳帝は豹を飼うという名目で、美女たちを集めて乱交する豹房を作ったそうです。
白い柔肌(白人系)を持つ回回(イスラム民族)女子も集められ豹房に入れられました。
祖母である成化帝女史の紀氏がヤオ族出身であったためか、正徳帝は外国の文化に偏見を持っていませんでした。漢名以外にもモンゴル語「フビライ」ペルシャ語「スレイマン・シャー」アラビア語「シェイク・アラン(聖人)」チベット仏教用語「カルマパ(大宝法王)」などと自称しました。
嘉靖帝時代の刑罰
隋唐以降の王朝では「苔刑(むちうち)」「杖刑」「徒刑(懲役)」「流刑」「死刑」の五刑が定められていました。
「壬寅宮変」は36歳の嘉靖帝をうら若い宮女たちが協力して襲い首を絞めた事件です。16人の少女たちには裸にされ少しづつ肉を度がれる凌遅の刑が執行されました。
嘉靖帝は愛猫家で、とても懐いていた純白の長毛種の猫に「霜眉」とい名前をつけかわいがっていました。
天啓帝の皇后選抜プロセス
后妃の選抜試験プロセスを官僚の紀昀『明懿安皇后外伝』に記しています。
①13歳から16歳までの女性を公募、応募者には役人がお金を支給し北京に上京。5000人。
②第一次選抜は、宦官による背や太さなどの全体外見の目視選抜で1000人が帰郷
③第二次選抜は、宦官による耳、口、鼻、髪、肌、腰、方、背中、声などのチェックでさらに2000人が退場
④第三次選抜は、宦官が手足の長さを物差しで計測。歩き方や姿勢、立ち居振る舞いなどで1000人が退場
⑤残りの1000人を、女性宮女が個別に密室で裸にしてチェックして、300人を選抜
⑥1ケ月間、性格や言動を観察され、最終的に50名が側室として選抜
⑦そのうち皇后となる少女は一人。
「対食」は向かい合って食事をする仲ということから宦官が宮女などの後宮の女性と親密な関係を結ぶことをいいます。宦官の魏忠賢は、天敬帝の乳母で人妻の客氏とカップルになり、後に正式に結婚しましたが、皇帝の信頼を縦に専横しました。
張皇后は「趙高伝」という秦を亡国に追いやった宦官についての本を読むことで、魏忠賢や客氏の横暴をほのめかしました。
宦官の魏忠賢や乳母の客氏は農民出身であまり学はありませんでした。孫二という死刑囚が「皇后は張国紀に養女に出した自分の娘」と主張した、と魏忠賢が触れ回り皇后を失脚させようとしましたが、皆失笑し、誰も信じませんでした。
天啓帝の皇后選外廷群臣、内廷宦官、外戚などの勢力を敵対させるために、宦官の非道を黙認していたという説もあります。
崇禎帝 明の最期
幼い頃母を亡くした崇禎帝は、母の当時の同僚 傅懿妃の協力を得て、母の肖像画を描かせ、完成した肖像画を、皇后だけが通れる紫禁城の正門から迎えました。
「嫡庶の別」を重んじる儒教の考え方より、亡き皇帝と位牌を並べられるのは元皇(最初の皇后)一人で、継后や後世代皇帝の生母は、その限りではありません。ただ、天敬帝や崇禎帝は、生母に皇后位を追贈しただけではなく父帝の陵墓に合葬し直しました。
李自成に攻め込まれ混乱していた崇禎帝の最期には数十人の臣下が殉死自殺しました。
魏氏以下、100人から200人に及ぶ宮女も入水自殺しました。
費氏という16歳の宮女は井戸に飛び込んだものの李自成軍に引きずり出され、家来に与えられました。婚儀の日、泥酔した家来を殺し自分も自殺しました。

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