後宮

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後宮(上)

後宮 殷から唐・五代十国まで (角川新書) 加藤 徹 (著) 5つ星のうち4.5 (51)
後宮 宋から清末まで (角川新書) 加藤 徹 (著) 5つ星のうち4.5 (50)

序章 後宮とは何か

漢文では「三宮六院七十二妃」「後宮佳麗三千人」という常套句的な表現があります。
また、中国四大美女といわれる春秋時代末期の西施、前漢の王昭君、後漢末の貂蝉ちょうせん1、唐の楊貴妃のうち、貂蝉以外は後宮に実在したとされる人物です。
漢語には「沈魚落雁、閉月羞花」という成語があます。西施に見とれてさなかが泳ぐのを忘れて水底に沈んだ、王昭君が琵琶を奏でると雁が感想して飛ぶのをわすれて落ちた、貂蝉が月を拝むと動くのを忘れた月が雲に隠れた、楊貴妃が散歩すると花が恥じて花びらを閉じたということを表します。日本語の「花も恥じらう」という表現の語源です。

儒教が理想とする外廷「六官」は3公9けい27大夫81元士。
外廷は朝廷の意味し、早朝に皇帝が庭に面して南向きに座って北面する臣下と政治をとったことが由来です(「君子南面す」。)廷は平らな場所というのが本来の意味で、それに建物をしますまだれをつかえものが庭です。
南半球では北極星は動かないので、それを天帝と見立てて、后や太子、臣下がそのまわりをまわっちると考えられました。よって、皇帝は北極星と同様、北側に位置したのでした2。ちなみに、日本の平安時代の宮廷も中国に準拠しており、(上皇)御所の北側、つまり院(帝)の後ろで守りについた直属武士を「北面の武士」といいました。3
三公九卿は貴族で「公侯伯子男」の五階級にわけられます。日本では太政大臣、右大臣、左大臣を「三公」とし、その他の従三位以上の高官を九卿ならぬ「公卿」としました。
「大夫」は家老、「士」は文武の実務能力者をしまします。

後宮は正式には内定といい皇帝の家を意味します。、内廷「六宮りくきゅう」は3夫人9嬪27世婦81御妻。
外廷の公卿が側近として別格であったのと同様、3夫人9嬪は妃嬪として別格扱いでした。
更に別格なのは正妻である「后」で定員はただ一人。側室とは雲泥の差がありました。
「后」の漢字の原義は「後」で後宮に住む后のことを示します。「妃」は側室や皇帝以外の皇族の正妻をいいます。「嬪」の原字は“賓客”の「賓」でもてなすという意味です。女偏がついてもてなす女性から転じました。
ちなみに宦官は子孫を残せないことと、自分の体を自ら傷つけた点が儒教の教えと合わず、奴婢同様の卑しい存在とされました。

外廷=国と、内廷=家をあわせて国家になります。

後宮は次世代の息子を得るためだけでなく、子孫を残して先祖の祭祀をしてもらうという目的が中国的です。「杞憂」という言葉は杞の国の男の心配事が題材になっていますが、夏王朝を滅ぼした殷は、夏の王室にゆかりのものに杞という土地を与えて先祖祭祀を引き継がせたといわれています。

古代中国では、結婚式は黄昏時、暗くなるころに行ったので、結婚のことを「昏」のちに女偏が加えられて「婚」といいました。

キリスト教ではアダムとイブが一夫一婦だとされていますが、中世以降には、リリスという前妻があり男女同権を主張して離婚したとの説話もあります。ヨーロッパでは愛人や庶子はありますが、国と国との契約としての結婚から相続権利を有する正当嫡子を明確化するため法的な一夫一婦が重視されました。
古代ローマやヨーロッパの絶対王政には後宮はありませんでした。古代ローマの5賢帝のうち4人は世襲ではなく養子で政権を継承しました。リチャード3世のDNAの調査により歴史上の家系図とは違う父子関係があると判明した興味深い研究があります。

中国も嫡子は重視されましたが、皇帝に権力が集中していただめ皇帝自身の血統を残すことと、広大な帝国を管理するための後継者を多数確保するために、正当な妻のほか側室が必要となりました。
日本では家の存続のための婿養子は珍しくなかったのに対し、中国では異姓の男子を改姓して養子にとるとることはありませんでした。

イスラム教の後宮は正妻は4人まで可能ですが平等に扱わねばならない義務があり、4人以外は女官や奴隷でした。オスマン帝国のハレムの女性たちは外国出身の奴隷で、「腹は仮物」「女性は子供を産む機会」というような性格で、例外は、世継ぎを生んだスレイマン1世の皇后ロクセラーナですが、通常は世継ぎや子供も産んでも母の身分は奴隷のままでした。
中東や遊牧民社会では、戦争が多く男子死亡率が高いので女性扶養や孤児保護の視点から後宮が必要になりましたが、部族同盟や部族推薦による即位の慣習から、複数(4人)の正妻は、各部族の代表として同等に扱われる必要がありました。

インド系仏教と違い、日本に伝わった中国系仏教は儒教の影響を受け、戒名や位牌があります。皇帝も位牌に記す諡号が「文王」「武王」など生前の業績かあら贈り名されます。「幽王」(存在感のない王)「霊王」(暗君)など印象の悪い諡号もあります。基本的には固有名詞ではありませんが、夏の「桀王」や殷の「紂王」など有名になりすぎて固有名詞のようになってしまったケースもあります。「始皇帝」のように自分で諡号を決めた皇帝もあります。

古代

黄帝「三皇五帝」

紀元前2697年に即位したと言われている黄帝は中国の伝説の天子「三皇五帝」の筆頭です。一夫多妻であったと伝えられ、ユネスコに登録されている中国最古の医学書『黄帝内経』や『素女経』など、房中術による健康保持を行ったとされています。
嫘祖、女節、彤魚とうぎょ氏、嫫母ぼぼなど妻の名前が伝わっています。このうち嫫母は醜女の代名詞とされるほどですが黄帝は彼女の才徳を評価したとか。また、嫫母は日本人の祖先になったという説もあります。

夏王朝

中国の代替わりには3つのパターンがあります。
「禅譲」君主が有徳の士に位を譲ること
「世襲」君主の子孫や血縁者がつぐこと
「放伐」君主が悪政をおこなったとき第三者が武力で打倒すること。
夏は最初の世襲王朝とされています。

夏の桀王

夏の桀王は、滅ぼした有施氏から差し出された、男勝りの末喜という美女を寵愛し政治を顧みませんでした。それをいさめた関龍逢は殺され人心も離れていきました。放伐によって殷の湯王に放伐により攻め滅ぼされた際に、桀王は末喜と共に落ち延びたと、自殺したとも言われています4

殷王朝

紀元前17世紀頃に暴君であった夏の桀王を、放伐によって殷のとう王が滅ぼしました。

武丁 男勝りの皇后

武丁時代の甲骨文字が現在確認できる最古の漢字です。

武丁の夫人の「婦好」が身ごもった子の性別を占ったことや、領地を持ち、軍隊を率いて異民族との戦いに赴いたことが記録に残っています。
宮城谷昌光の短編小説「沈黙の王」はこの夫婦を題材にしています。

紂王「酒池肉林」

殷の最後の君主、紂王は有蘇氏という部族を滅ぼし妲己を差し出されました。自分で官能的な曲を作曲したり、妲己を笑いを得るために厳格な処刑をみせたりしました。「酒家肉林」の言葉も生まれました。
夏の桀王と殷の紂王から、暴君のことを「桀紂」と言ったりします。
ただ、最近の研究では、紂王(帝辛)は祭祀を熱心に執り行う真面目な君主であったこといわれています。古代の王は神々を祭るため膨大な量の酒や肉、人身御供をささげたことがわかってきました。

紀元前11世紀頃に殷王朝を滅ぼした周には、すでに後宮があったとされています。ただ、それらが記載されている史料には春秋時代の孔子が創始した儒教の理想が反映されており、どこまで史実かはわかりません。
例えば、秦の始皇帝の皇后が存在したか、宦官が去勢されていたのかも不明です。

成王と倭人

倭人が来て薬草を献上した旨、王充『論衡』に記されています。

幽王と褒姒

皇帝は龍になぞらえられます。4千年前の温暖期には黄河流域にもワニが生息していましたが、寒冷化と共に絶滅しました。古代のワニの記憶が龍のイメージに影響を与えているという説もあります。

夏王朝の末期に褒氏が二匹の龍となり、その泡を箱にしまっておきました。周に受け継がれたその箱を、第10代厲王が開くと泡が黒いヤモリに姿を変え、後宮で養われていた童女と遭遇しました。彼女は処女懐胎し第11代宣王の時代に産んだ娘が美女に成長し第12代幽王に献上されました。それが褒姒です。
幽王は彼女を笑わせようと、戦乱が無くても狼煙をあげさせたので、肝腎の戦の際に軍が招集できなかったとの逸話があります。

幽王は正妻と嫡子の太子を廃し、褒姒の子を太子としました。ヨーロッパでは愛人の子は庶子であり、正妻の子のように跡継ぎにはなれない常識があり、正妻と男子の地位は保証されていました。古代中国では、君主後継者ルールが確立していいなかったので、しばしば騒動がおき国を揺るがしました。

幽王正妻の父、申候は西戎5西夷6などの異民族や繒侯などと共に反乱して幽王を滅ぼし、孫である当初の太子を平王にたてました。

呉・越

「呉越同舟」7の語源となる隣国ですが敵同士でした。呉王夫差は父を討たれた恨みを忘れぬよう寝心地の悪い薪の上で寝ていました。後に夫差に敗北した越王勾践は、悔しさを忘れぬよう食事の度に苦い熊の肝をめていました。「臥薪嘗胆」の由来です。
越の范蠡が王に美女を送ることを進言し、ある村の西側に住んでいた西施が選ばれました。数年後に越が呉を滅ぼすことができたのは、呉王夫差が西施に夢中になり国政をおろそかにしたせいとの説があり、敵国に美女を献上する策を「美女の計」というようになりました。
本名を施夷光いしこうという西施は衛の南子に対して西子とも呼ばれます。呉がほろんだ後、夫の越王勾践が西施に夢中になることを恐れた妻や西施を恨んでいた呉の人々により溺死させられたといいます。ハマグリを西施の舌、レンコンを西施のひじ、フグを西施の乳と呼ぶのはこれに由来するとか。毛足の長い貴族の愛玩犬であった小型犬シーズーは中国では西施犬と言われます。

陳の霊公と2人の臣下は、人妻の夏姫と関係を持ち、それぞれが彼女の肌着を身に着けてふざけ合ったと追われています。

衛の霊公の妻、悪妻とされている南子を寵愛しており、それで孔子が衛を見限ったといわれています。南子は中島敦が短編小説の題材にしています。
中嶋敦_盈虚

後宮古代系図

昭襄王の母 宣太后

恵文王の正妻を母とする武王が早く亡くなったので、側室宣氏の子、昭襄王が即位し宣太后は垂簾政治を行いました。王と図り、敵国義渠ぎきょ(オルドス地方の遊牧国家)の戎王と不倫し、油断させて殺害しました。

孝文王 后妃の等級

王后、夫人、美人、良人、八子、長使、少使

荘襄王

荘襄王の母は寵愛を失っていましたが、呂不韋に見込まれ父王の継室である華陽夫人の養子となりました。呂不韋の言「奇貨居くべし(珍しい品物なので手元に置いておこう)」が有名です。華陽夫人は楚の国の公女であったので、荘襄王は「異人」から「子楚」に改名しました。

始皇帝

始皇帝は呂不韋の子との噂もあります。呂不韋の妻(愛人とも)を子楚に差し出し側室となりました。趙の出身なので趙姫とよばれます。子楚の亡きあと、趙姫は呂不韋との関係を復活させました。また、嫪毐ろうあいという偽宦官を侍らせ子まで為しました。発覚後、子楚と嫪毐は粛清されましたが、始皇帝の母ということで趙姫は罰されることはありませんでした。

秦の第31代王の嬴政は皇帝という新しい君主号を名乗り、以来20世紀まで中国の君主は皇帝と呼ばれるようになります。とはいえ、始皇帝の死去後すぐに、700年続いた秦は滅亡しました。

(サイト内リンク)漢の後宮

三国時代(蜀・魏・呉)

後漢末期、太平道8という道教の教祖を指導者として農民たちが起こした組織的な乱を「黄巾の乱」といいます。これが後漢の衰退を招き、三国時代に移る契機となりました。

三国志の前半の英雄豪傑の出身階層は様々ですが、後半は司馬氏など名士中心になります。魏の曹操も名士でない人物をとりたてていましたが、名士との対立を予見していたと「三馬同槽」にあります。曹操が三馬が同じ飼い葉桶からむしゃむしゃ種ている夢を見て、司馬仲達、司馬師、司馬昭に食い物にされると警戒したとか。
それでも、司馬氏は曹節を漢の礼で葬り皇后としての諡号を送りました。
曹操は後漢の豪族時代に骨太な漢詩を書いたと言われますが、三男の曹植は耽美的な作品を書きました。

魏の文帝時代に、地方豪族の推薦ではなく政府主導の能力主義による官吏登用制度「九品官人法」9が始められました。後に隋の文帝が廃止し、科挙を採用することになりますが、官僚を9品にランクわけする制度は受け継がれ、日本の官位十二階などに影響を及ぼしました。

西晋

秦の始皇帝より保持されてきた玉璽(皇帝用の印)を禅譲の証としています10。秦→前漢→新→後漢→魏→前趙→後趙→冉魏→東晋→宋→斉→梁→陳→隋→唐→後梁→後唐→後晋→(紛失)(発見 模造品?)元→北元→後金→清。現在は台北の故宮博物院で展示されています。

西晋は魏の皇帝からの禅譲によって成立したので、劉備玄徳の蜀や、孫権の呉は正当性がない自称の「僭称皇帝」にすぎないとしています。
ただ『三国志』では、2代皇帝の母で初代劉備の側室であった甘夫人を皇后とよんでいます。

武帝後宮の盛り塩

西晋の初代武帝は、呉を滅亡させた後、後宮を併合したので、一万人近くに膨れ上がったとか。広大な後宮を夜ごと羊の車でまわりました。女性たちは自宿舎の前で車をとめるため羊の好物である塩を盛ったのが、日本の「盛り塩」の起源ともいわれています。

前趙

紀元前200年ころ全漢の初代皇帝劉邦が、匈奴に公主として身内の女性を送って兄弟の契りを結んだことを踏まえ、匈奴の単于の遠い子孫である劉淵は、漢の国姓である劉を名乗りました。

後宮秦・漢・三国・西晋・前趙系図

南朝 宋 血族惨劇

3代文帝の皇太子は父を殺害して皇帝となりましたが、3ケ月で文帝の弟、考武帝に殺されました。皇太子であった光武帝の息子が即位するも1年で叔父の劉彧に殺され、文帝の子であった劉彧が明帝として即位しました。明帝は、兄光武帝の28人の息子のうち16人を殺しました。明帝の皇太子(後廃帝)は即位後すぐ光武帝の残りの息子たちを皆殺しにしました。後廃帝は蕭道成に殺害され、蕭道成は後廃帝の弟の順帝を擁立しましたが、2年後に禅譲が行われ、蕭道成は斉の初代皇帝となりました。順帝は禅譲1ケ月後に13歳で殺され、弟たちも皆殺しになりました。

南朝 斉 血族惨劇

第5代明帝は、創始者の子孫ですが先代とは別系統。先代系統の子孫を皆殺しにしました。その子

東昏侯 潘貴妃の金蓮歩

廃帝となった蕭宝巻(東昏侯)が寵愛した潘貴妃に、金で作った蓮の花を敷き詰めた地面を裸足で歩かせたことから、美女のセクシーな歩みを「金蓮歩」、纏足した足を「金蓮」と呼ぶようになりました。
明代の小説『金瓶梅』の主人公は潘金蓮という名前です11

北魏

外戚の専横を防ぐため、皇太子の生母に死を賜る「子貴母死」制がありました。

第3代の太武帝は華北統一を成し遂げましたが、宦官 宗愛に殺害されました。宗愛は太武帝の末子 拓跋余を傀儡の皇帝としましたが。専横を嫌われたため殺害。中国史で皇帝を二人も弑逆した宦官は宗愛だけです。宗愛も廷臣たちに殺されました。

孝文帝 姓を「拓跋」から「元」に

父親の献文帝と13歳しか違わない生年が怪しいことから、馮太后と寵臣との子という説もあります。また25歳の馮太后のレビラト婚に関係するとの説もあります。

姓を鮮卑語による「拓跋」から漢族風「元」にあらためました。また胡族と漢族の同家格の通婚を奨励し、北魏皇室と通婚できる「五姓」は、盧氏(范陽)崔氏(清河)鄭氏(けい陽)王氏(太原)李氏(趙郡、隴西)としました。

北周の霊帝は父帝の崩御すぐに宮女に淫行をしかけ、在位一年足らずで7歳の息子に譲位し、自分は酒食にふけり、政治は義父の煬堅に丸投げしました。煬堅は帝位を簒奪し隋の初代皇帝文帝となりました。

文帝は体系的な律令を定め、身分に関係なく優秀な人材を登用するために「科挙」の試験制度をはじめました。
日本から小野妹子が遣隋使として訪れ「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を届けたのもこの頃です。

自分以外の女に子を産ませぬよう約束して結婚した独狐皇后の夫、文帝にはほとんど側室がありませんでした。

儒教の経典『礼記』の三進制(三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻)を踏襲

皇后
四夫人(貴妃および淑妃、徳妃、賢妃)
九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛、修儀、修容、修媛)※昭は明らかにするという意味
二十七世婦(婕妤、美人、才人がそれぞれ複数名)
八十一御妻(宝林、御女、采女がそれぞれ複数名)
宮女(宮廷雑務を担当する女性たち)

高宗と武則天

高宗の王皇后は夫が簫淑妃に夢中になりすぎないよう武照を昭儀として後宮に入れましたが、逆に武照に寵愛が集まり、高宗亡きあと、自ら帝位につくほどの権力を得ました。
武則天として即位した武照は名宰相の狄仁傑てき じんけつなど、身分が低くても才能とやる気のある者は重用しました。
旧来の門閥貴族勢力に対抗する振興官僚勢力が味方となりました。

順宗は先帝の嫡長子

唐の歴代皇帝のうち先帝の嫡長子は順宗だけ、日本の徳川将軍家でも正室の子が継いだのは徳川家光だけです。

憲宗 立后

(高宗妃)武則天、(中宗)韋皇后、(粛宗)張皇后などの専横の例から、唐時代中盤では皇帝の在位中に立后する例は絶えていました。

後宮 南朝宋・南朝斉・北魏・隋・唐系図

後宮(下)

宋の後宮は、悪くいえば地味ではあったが、内廷としての機能はちゃんと果たしたのだ。

文治主義が社会に徹底し、儒教的倫理観が社会に広まった。

北宋初代太祖 趙匡胤「石刻遺訓」

前王朝の子孫を殺さず優遇しました。

「石刻遺訓」は太祖が石に刻んで子孫の皇帝に伝えた秘密の遺言で、王朝が滅亡した時にはじめて明らかになったそうです。
・前王朝の皇帝で自分の上司だったしば氏の子孫を大切にすること
・知識人や言論人を殺してはならないこと
・上記2条を代々守れ

著者は私見として、後宮に点数をつけています。北魏40点、唐50点、宋80点

北宋 仁宗「宋儒」

井上靖『敦煌』には皇帝自ら科挙の最終試験官となる様子が描かれています。
宋代の儒者を「宋儒」といい、頭が固い厳格な先生を皮肉るときにも使われます。

儒教的な男尊女卑の考え方も根強く、科挙官僚が政界の中心で頭の固い儒教的気風でした。

北宋 英宗の皇后

英宋の側室は極端に少なかったそうです。

北宋 神宗 東坡肉

黄州に左遷された蘇軾そしょくは、出身地の地名から東坡居士とうばこしを名乗り、考案した豚肉料理が東坡肉トンポーロー

北宋 徽宗 金俘虜

北宋滅亡時期を描く小説には、世直しがテーマの『水滸伝』、西夏との戦い『敦煌』井上靖、遼との戦い『楊家将』北方謙三、などがあります。
金国の視点で「靖康の変(金俘虜)」前後を描く漫画『天井恋歌~金の皇女と火の薬師~』青木朋も紹介されています。

「楼」「縷」などの漢字の“つくり”の部分は女奴隷を紐で引っ張る光景を示すのだそうです。戦利品として“縷々”長い行列をなして引っ張られていく様子を表しています。

高宗が海上から逃亡する際、「白魚入舟」は、周の武王の船に白魚が飛び込んできた後、殷の紂王に勝利した吉兆を紹介した呉氏はのちに皇后に冊立されました。

一代の皇帝が生涯に立てる皇后は3人までとされていました。

中国の皇帝で退位後も実権を握った上皇は、高宗と孝宗、清の乾隆帝の3人のみ。

南宋 高祖「皇后遥封」

前皇帝や妃たちは金の俘虜として連行されました。残った高祖が即位しましたが、正妃は連行されていたので、不在のまま皇后に擁立しました。これを「皇后遥封」といいます。

宋では科挙官僚が国政を担いましたが、父祖の功績により一定の官位が与えられる「蔭位おんいの制」もありました。この制度で武臣官僚となった、名臣 韓琦の孫である韓侂冑かん たくちゅうは、自分の専横を批判した朱子学の開祖、朱子を弾圧しました。この事件は「慶元偽学の禁」と呼ばれます。

孝宗・寧宗 官僚のコントロール

科挙官僚の勢力をコントロールするために、宰相職を空席のままにしたり、武臣官僚や宗室を利用しました。

鎌倉時代の日本、陳時代のベトナム、マムルーク朝のエジプトなどは、主人と家来が強固な絆で結ばれた「武」の時代でしたが、南宋は文にシフトし文弱の時代でした。

南宋滅亡 祥興帝

8歳の祥興帝は側近に背負われて入水自殺しました。南宋では最後の瞬間まで外廷と内廷が運命共同体として国家の存続を図りました。後宮の使命は「一塊之肉」とよばれるただ一人残された子どもを育てることでした。

後宮宋系図

征服王朝

漢族王朝(漢族君主)秦、漢、隋、唐、宋、明
浸透王朝(異民族が漢族に同化)北魏など
征服王朝(非漢族がアイデンティティを保ちつつ統治)遼、金、元、清

征服王朝conquest dynastyという概念は歴史学者カール・アウグスト・ウィットフォーゲルが提唱。
浸透王朝のように同化吸収されないよう、後宮では、漢族女子を制限するなど母系が重視されました。移動生活を繰り返す遊牧民族では漢民族のように豪華な宮殿をたてたりすることはなく後宮の規模もコンパクトで、質実剛健の気風を美風として尊びました。

漢族では外戚専横をふせぐため皇帝生母の出身氏族がひとつに集中しないように配慮していましたが、逆に遊牧民族では母方氏族のランキングや皇室血統を守る意識も強かったので、出身氏族が集中する傾向にありました。藤原氏や日野氏が帝位・将軍位を簒奪する意識がなかった日本の後宮と似ています。北方謙三『楊家将』に登場する遼のしょう皇后は、複数の蕭一族の皇后をモデルとしています。

父子だけでなく兄弟、従兄弟、継続もみられます。母后は非漢族の名門出身ではありますが、遼ほど氏族が集中していません。

金 熙宗の後宮等級

皇后、貴妃、賢妃、徳妃

金 海陵王の後宮等級

皇后、元妃、しゅ(女偏に朱)妃、恵妃、貴妃、賢妃、宸妃、麗妃、淑妃、昭妃、温妃、柔妃 漢語ではモチモチした肌を持つ女性を「温柔郷」といい、日本でも遊里の意味にも使われます。
以上12人の他、昭儀から充媛まで九嬪が9人、婕妤、美人、才人が3人、以下数え切れぬほどの女性を囲いました。

海陵王の淫虐非道は、駒田信二『私本・荒淫王伝』にも描かれています。処女、人妻、強姦、母娘、複数人、男装などの女性を犯したとの伝えられています。

妾媵しょうよう」の、妾は側室の意、おくりめは正室の身内の女性で正室が妊娠できぬ場合に代わりに妊娠する侍女。妾の子は庶子ですが、媵の子は嫡子となりました。

金 世宗の後宮

海陵王はいとこ(のちの世宗)の妻を召したが、妻は夫のために海陵王のもとに赴き、自殺しました。世宗は自分のために命を犠牲にした夫人をしのび、在位中に皇后をたてませんでした。また後宮を規模を簡素にもどしました。

「南船北馬」は、華北平原では騎馬軍団が強く、川や湖が多い江南では船団が強いことを意味しています。

チンギス・カンのチンギス統原理

モンゴル帝国からみ見れば、中国はユーラシア大陸の端の一地域にすぎません。

後宮の位階は、複数の后(正妻)と妃(側室)の二等級の簡素なもので、それは歴代の皇帝に受け継がれました。ハン(カン)の后は可敦ハトゥン(中国では皇后)、側室は妃子と称されました。

北方民族は、漢族王朝の儒教的な長子相続や長幼の序、嫡庶の意識は希薄で、兄弟、いとこ、甥などの継承も少なくありませんでしたが、国家君主はチンギス・カンの血を父兄から引き継いでいなければならないという「チンギス統原理」がありました。日本の万世一系の天皇制の継承原理と似ています。
よって、外戚による王朝簒奪の余地はありませんでした。後宮も簡素で、后妃間の過剰な権力闘争や宦官の跋扈もありませんでした。

世祖クビライの皇后

クビライの妻チャプイにはじめて、中国式の「皇后」という位階が与えられました。

恵宗トゴン・テムルの奇皇后

高麗から献上された高麗貢女からも妃が生まれ、奇皇后もその一人です。
韓国のテレビドラマ『奇皇后~ふたつの愛 涙の誓い~』は人気を博しました。
臣下の李泌は「先祖クビライ様が、わが子孫は高麗女性と共に宗廟に入ってはならぬ」と宣言された、と反対しました。

明軍に責められ元の大都を攻略された後、恵宗はモンゴル高原の旧都カラコルムに敗走しました。漢族は元の北走を滅亡とみなしましたが、モンゴル族からみれば太祖チンギス・カンの時代に戻ったにすぎず「大元」を自称しつつ存続しました。後世の歴史家には「北元」とよばれています。後に清のホンタイジに皇帝(ハーン)の位を奪われ、名実ともに元は消滅します。

後宮遼・金・元系図

(サイト内リンク)明王朝の後宮

李自成の乱

明末期、農民出身の李自成が乱をおこして北京を占領し、崇禎帝は自害したため明朝は滅亡しました。李自成は「順」の皇帝を自称しました。翌年、李自成は清軍に敗走中に農民によって殺害され、後継者も長く続かず4年後に順は滅亡しました。

李自成軍が、豪華な屋敷で捕らえ殺害された、万歴帝の3男で福王こと朱常洵の肉を、庭園の鹿と一緒に食べた宴会を「福禄宴」といいます。福王と鹿の読み方ロクをかけた意味です。福王の血を鹿の塩漬け肉をまぜて「福禄酒」と称して飲んだともいいます。

後宮明系図

日本でも旗本といいますが、清の部族を黄、白、紅、藍の旗印の四軍にわけ、後にふちどりをした旗を増やして八軍を「八旗」としました。更に、モンゴル民族や漢民族にも八旗を作り、満州八旗のほか、蒙古八旗、漢軍八旗の合計24旗が生まれました。
なお、日本の武士の月代のように兜をかぶっても蒸れないよう頭を剃った女真の風習が辮髪で、非支配者層の漢民族にも強要しました。半面、「満漢併用制」というように官吏は満州民族と漢民族が同数定数にしたり、公文書に漢文と満文を併記したり、科挙官僚などの知識人層の権益は守るなど硬難あわせた統治を行いました。

後宮では后妃の血統を重んじ、皇帝の母は「八旗」の女子に限られ、漢族に同化吸収されることを防ぎました。漢軍八旗は厳密には漢民族ですが早くから後金に服属して満州化した氏族です。「選秀女」も容姿だけでない資質が重んじられました。
后妃の序列は厳格で宦官の人数や権限も抑制されましたので、外戚や宦官の専横はみられませんでした。宦官の多くは漢族でした。

明の太祖が庶民出身であり、外戚専横も嫌って庶民から容姿中心に選ばれがちであった明の後宮と違って、清の皇帝は選抜された優秀で聡明な女子から生まれた皇帝が多く、あまり奇人変人はなかったそうです。

初代ヌルハチから第12代溥儀まで、約300年続いた清の皇帝の平均在位数は約25年で、明の16年に比べても長めです。第10代同治帝まで父子相続が続き継承が安定していました。

太祖ヌルハチ 後金の建国

ヌルハチは、明が日本軍との戦いで手薄になった機会に女真族を統一しました。彼は北方民族の君主号「ハン(カン)」を名乗り、国号を金の復興に基づく「金」としました。歴史家は「後金」といいます。ヌルハチの氏族名ギョロに金を意味するアイシンを付け加えて、「愛新覚羅アイシンギョロ」としました。

58歳でハンとなったヌルハチの後宮は小規模で簡素でした。

太宗ホンタイジ 後金から清へ

国号を金から清、民族名を女真族から満州族に改称。モンゴルの最後の皇帝から玉璽を入手し、世界統一の使命のよりどころとしました。

順治帝「清の入関」

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李自成を倒した順治帝の時代から紫禁城に入りました。これを「清の入関」と呼びます。漢族から見て万里の長城の東端の「山海関」の西側を内関と呼びます。東側は関東と呼び、満州に入った日本軍を関東軍といいます。ちなみに日本の横浜の「関内」も外国人居留地の関門の内側をいいます。

順治帝の生母ブムブタイが、夫ホンタイジの死後、夫の弟デアルドルゴンと秘密裏に結婚していたのではないか、との疑惑を「孝荘下嫁」といいます。ただ、ホンタイジはレビラト婚を禁じていましたし、順治帝は幼少から漢文化に心酔していました。

順治帝の寵愛する皇貴妃ドンゴ氏が亡くなり、意気消沈した帝も半年もたたずに病没したとされます。帝の崩御日に別の側室ドンゴ氏が殉死しました。次代の康熙帝は殉死を禁止したので最後の公式な殉死者となりました。皇貴妃を気に入らなかったボルジキト族の皇后や皇太后から、一族への反感を解くためにみずから犠牲になったと推理されることもあります。
ただ、順治帝は亡くなっておらず、秘密裏に出家したとのうわさがあり「順治出家」といわれます。陳舜臣は『中国傑物伝』において、8歳で帝位をついだ息子康熙帝が、仏教には関心がないのに、北京から遠く離れたある寺に、生母や皇太后を伴って5回も参詣し、あるときからふっつりやめたことを指摘し、その時が本当に順治が亡くなった時期ではないかと推理しています。

順治帝の妻妾はのべ32人で、廃皇后1人、皇后3人、妃7人、福晋4人、格格17人でした。

康熙帝 最長在位

康熙帝の生母の一族は、漢軍八旗でしたが、その実家の姓を満州八旗のひとつであるトゥンギャ氏に編入しました。この時から皇帝生母の実家の旗を格上げする慣習がはじまりました。それまでは、満州八旗にあまりステイタスの違いはなかったのですが、皇帝直属の上三旗が、それ以外の下五旗より格上だという認識が次第に広まりました。
「八旗秀女」は八旗からの選抜で、皇帝后妃候補にならなくても、「賜婚」といって皇族や貴族の妻になれる可能性がありました。また、上三旗からは皇帝や后妃の身の回りの世話をする宮女が選抜され包衣ボーイとよばれました。
後宮の等級は、皇后、皇貴妃、妃、嬪、貴人、庶妃、大答応、小答応、格格、学生などの順。

清王朝が節約とアウトソーシングにより民の負担を減らし善政を行っていることを強調しました。

歴代最長在位61年、以下清の乾隆帝60年、前漢の武帝54年、遼の聖宗49年、明の万歴帝48年と続きます。

順治帝までは北方民族の実力主義の気風から皇帝の後継者はぎりぎりまで決められませんでした。紫禁城生まれ育ちの康熙帝は儒教倫理により長男を皇太子に定めました。康熙帝は14歳から65歳までのありだに、32人の女性との間に55人の子供をもうけています。ただ、治世が長すぎたため、皇太子派閥との葛藤が生まれ、廃太子にしています。その後、死ぬまで公式に皇太子をたてなかったので、後世「九個奪嫡」と言われる後継者争いがありました。

雍正帝「太子密建」

雍正帝の父康熙帝は、本当は別の皇子を後継者にするつもりだったのに騙されたのではないか、との疑惑は「雍正簒奪」といわれます。遺言には第四子と書かれていたのに、雍正帝派の重臣で遺言を発表したロンコドが第十四と書き換えたのではないかというものです。
雍正帝の生母ウヤ氏は寵愛され徳妃となりましたが、もとは「八旗秀女」ではなく「三旗包衣」という低い身分でああっことも疑惑を高めました。

雍正帝自身は「太子密建」別名「秘密立儲」という制度で後継者を指名しました。亡くなるまで皇太子を公式には指名しないのですが、宮殿の目立つ場所に遺言を入れた箱を安置し、開封も衆人環視の中で行うものです。『旧唐書』に書かれたペルシャ王の継承方式を、そのまま採用した可能性があるとか。

雍正帝の死は、過労死または服薬による中毒死とされていますが、実はかつて粛清した学者の娘に暗殺されたのではないか、との疑惑もあり「雍正被刺」とよばれます。

雍正帝にはのべ24人の后妃があり、皇后(別格1人)、(追封皇后2人)、皇貴妃(2人)貴妃(1人)妃(4人)嬪・貴(8人)、常在・答応(8人)でした。

雍正帝は熱心なチベット仏教の信者でした。

乾隆帝「乾隆身世」

乾隆帝の生母は、満州八旗のニオフル氏でしたが、実は漢民族出身であったのではないか、との疑惑は「乾隆身世」と言われます。雍正帝が女児の一人と漢族の陳閣老という人物の男児と交換したとの噂が、清末の小説家天嘏てんがによる『満清外史』に記されています。また雍正帝が避暑地で李姓の漢族の娘を妊娠させたとの説や、皇后は銭姓の漢族であったがニオフル氏に改姓させたとの説もあるそうです。
その他、金俘虜となった北宋徽宗の娘の末裔で、金と宋の血を引いているとの説もあります。

康熙帝の時代に1億人だった清の人口は、乾隆帝の時代に3億人を超え、当時の推定世界人口の3分の1が清国人だったと考えられています。

乾隆帝の妻妾はのべ41人にのぼり、皇后(2人、追封皇后別途1人)皇貴妃(5人)賢妃(5人)妃(6人)嬪(6人)貴人(12人)常在(4人)でした。
テレビドラマ『如懿伝』は乾隆帝の後宮を舞台にしています。
后妃は原則として八旗出身とされていましたが、戦利品であったウィグル人ホージャ(和)氏は例外で、容妃としてひときわ寵愛されました。浅田次郎『蒼穹の昴』にも香妃伝説として登場します。

后妃が済むのは「東西六宮」あわせて16の宮殿です。その間には皇帝が政務を執り行う「乾清宮」がありますが、乾隆帝が好んだのは「三希堂」という書斎でした。日本の茶室ほどの狭い小部屋ですが、「三希」とよばれる西晋の3人の書家、王義之の「快雪時晴帖」、王献之「中秋帖」、王珣「伯遠帖12」の作品がありました。

乾隆帝は尊敬する祖父の康熙帝の在位より1年少ない60年で息子に譲位しましたが、紫禁城内の「皇極殿」で太政皇帝として実験を握り続けました。

嘉慶帝の後宮

嘉慶帝の時代に白蓮教んも乱や天理教の乱などがありました。日本の天理教とは一切関係がありません。

61歳で病死した嘉慶帝の妻妾はのべ14人で、皇后(2人)皇貴妃(2人)妃(4人)嬪(6人)でした。

道光帝の後宮

道光帝は清の歴代皇帝の中で唯一皇帝と正妻(嫡皇后)のあいだに生まれました。

のべ20人の妻妾は、皇后(3人)追封皇后(1人)皇貴妃(1人)貴妃(3人)妃(3人)嬪(5人)貴人(4人)でした。

咸豊帝 東太后と西太后

咸豊帝は、兄3人が早世したため、即位しました。

後宮18名は、皇后(2人)追封皇后(1人)皇貴妃(2人)貴妃(2人)妃(4人)嬪(4人)常在(3人)でした。
最初の正妻は皇帝に即位する前に病死しましたが、咸豊帝即位後に皇后位を追贈されています。二番目の皇后は東太后ことニオフル氏で、夫の死後に幼い同治帝を保護して西太后と共に垂簾政治を行いました。咸豊帝の存命中は、同治帝の生母として貴妃であった懿氏は、同治帝即位後皇太后となり、東宮の東太后、西宮の西太后と呼ばれました。

道光帝から光緒帝までの歴史は加藤徹『西太后』に詳述されています。

西太后に侍して 紫禁城の二年間 (講談社学術文庫) 徳齢 (著), 加藤徹 (著), 太田七郎 (翻訳), 田中克己 (翻訳) 5つ星のうち4.0 (62)

最後の宦官小徳張 (朝日選書 434) 張 仲忱 (著), 岩井 茂樹 (著) 5つ星のうち4.2 (6)

同治帝の皇后

同治帝には5人の妻妾がありましたが、子をもうけずに亡くなりました。
正妻は蒙古旗人のアルト氏でした。西太后の推薦したフチャ氏は正妻ではなく慧妃となりました。アルト氏は同治帝の死後70日あまりに病死しますが、溥儀『わが半生』には、西太后がアルト氏を餓死させたとの話を載せています。同治帝の次の世代が新帝になれば皇后のアルト氏は皇太后にくりあがり、西太后の垂簾政治の実権が奪われてしまうからです。アルト氏は身ごもっていたとの説もありました。アルト氏は皇后として同治帝と合葬されました。

光緒帝『蒼穹の昴』

蒼穹の昴 (講談社文庫) 浅田次郎 (著) 光緒帝の宮廷を舞台とするフィクション

外国嫌いの保守派は西太后のまわりに集まり「后党」と、開明的な改革は若い光緒帝のまわりに集まり「帝党」とよばれました。このコンフリクトは西太后が光緒帝を幽閉することで決着がつきました。

光緒帝は西太后の姪である皇后エホナラ氏を寵愛しませんでした。タタラ氏出身の姉妹の側室があり、寵愛された妹の珍妃は西太后の反感を買い、義和団が迫った紫禁城から逃亡する際に、宮中に井戸に投げ込ませました。大人しい姉の瑾妃は西太后と衝突せず、清の滅亡後も紫禁城に暮らしました。

光緒帝は38歳で病死し、西太后も翌日74歳で病死。光緒帝はヒ素による毒殺説が有力です。

宣統帝 ラストエンペラー溥儀

辛亥革命政府は清朝政府に対して優待条件を提示し、退位しても引き続き紫禁城に居住することを許されました。大人たちが決めたことで、幼い溥儀にとっては生活は何もかわりませんでした。

弟の溥傑の妻は日本人貴族の娘、浩で回顧録『流転の王妃の昭和史』の中で、晩年の溥儀が「チキン・ラーメンを食べたい」と言っていたことを掲載しています。

溥儀は、紫禁城にて、アヘン中毒となった正妻の満州旗人ゴブロ氏婉容、離婚した淑妃の蒙古旗人エルデト氏文繡と同時に結婚しました。溥儀が満州皇帝であったころに、祥貴人として満州旗人タタラ氏譚玉齢を側室として迎えましたが、五年後に病死したので、福貴人として漢族の李玉琴を側室にしました。中華人民共和国に釈放された後は、漢族一般人で看護婦の李淑賢とい結婚しました。

(サイト内リンク)中国租界のあった地域を舞台にした映画>ラスト・エンペラー

後宮清系図

 

 

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  11. 金瓶梅 – Wikipedia
  12. https://kampokan.com/kp_database/%E8%A1%8C%E6%9B%B8%E8%87%A8%E7%8E%8B%E7%8F%A3%E4%BC%AF%E9%81%A0%E5%B8%96%E8%BB%B8/

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