パリの地区と移民 『ヌヌ』完璧なベビーシッター

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『ヌヌ』 完璧なベビーシッター

新進気鋭の若手作家に贈られることが多いフランスで最も権威ある文学賞のひとつであるゴングール賞を1016年に受賞1

ヌヌ 乳母という意味のフランス語「ヌーリス」が子ども言葉として定着したもの

パリの区

パリ6区

主人公夫婦は夫の知人のミュージシャンのパリ6区1にある家、屋根裏部屋のアパルトマンのパーティに招かれます。番号が少ない地区はそれだけ古い地区でパリの中心に近くなります。ルーブル美術館の対岸にあたり、カルチェ・ラタン1やサン・ジェルマン・デ・プレ1などのおしゃれで高級な地区。アーチストが好みそうな地区です。でも、なかなか物件が出ないといいますから、不便な最上階でも住みたい人は多いのかもしれません。

パリ10区

主人公の家族はパリ十区1オトヴィル通りにあるアパルトマンに住んでいます。パリ北駅1や東駅1など大きな駅があり、最悪というわけではないが、治安がいい最高級地区とはいえないようです。

オトヴィル通り

文化度が高く、経済的にまあまあ恵まれている。昔からの住人たちとの交流はないのに、庶民的な場所に住むことをプライドにしているような人々。社会の多様性、反人種差別、肯定的な評価を良しとし、環境問題にも敏感なふりを装う、いわゆるボボ(ブルジョア・ボヘミアン)と呼ばれる人々が好んで住む地区だ。(訳者あとがきより)

http://sakaotoko.com/2418/

若い移民系の弁護士の妻と音響アシスタントの夫のカップルなので、上流階級の子弟というわけではなく、上昇志向の中流といった設定でしょうか。1,2

ヌヌは子供たちを公園に散歩に連れ出します。

フランスのヌヌは、アフリカ系、フィリ ピン系、中国系など外国人が多く、労働許可なし働いているケースも多いようです。雇い主に税金の負担がかかるので、労働許可を申請することを嫌がる場合も少なくないそうです。仕事を得るために仲介料を払ったり(参照論文のケースでは日本円約90万円)、複数の家庭を掛け持ちするしたり、厳しい労働環境のようです。3

シーソーや砂場の周りではコートボジワールのパウレ語、ナイジェリアやコンゴの人たちが使うジュラ語、アラビア語、ヒンズー語が飛び交い、フィリピン語やロシア語で愛をささやく声が聞こえる。

パリ14区

ルイーズ(ヌヌ;ベビーシッター)が以前働いていた、画家が母親と暮らす邸宅はパリ14区1にあります。14区の北部を中心にとした地域はモンパルナスと呼ばれ4ました。モンパルナス1の語源は、ギリシャデルフォイの神殿の上のそびえるパルナッソス山1で文芸の女神たちが住んだといわれています。19世紀末から詩を朗読する学生に続いて芸術家が集まるようになりました。この”芸術の街”には、高村光太郎、藤田嗣治ら、日本人の芸術家たちも多く在住しました。

パリ15区

ルイーズ(ヌヌ;ベビーシッター)の娘ステファニーは、当時のルイーズの雇い主の好意でパリ市内の評判のよい中学に入学しましたが、授業をさぼり15区の公園で大麻を吸いベンチに寝転がって過ごすようになりました。

15区5は19区とちょうど反対のセーヌ河南側にあり、観光地ではない緑の多いファミリー向けの区だとか6

貧困層の子供が地元から離れた、家庭環境が違う子供達(や大人たち)の中で居心地が悪くなじめない様子が想像でき、少し切ない印象です。

パリ19区

19区20区は、7世紀ころは古フランク語で「野生の山」を意味する「Savies」と呼ばれていました7。その後『美しい眺め』(Belle vue)からベルヴィル1と呼ばれるようになりましたが、採石労働者やワイン生産者が暮らす土地でした。当時はパリ市の郊外であったので税金がかからず、ワインを安く提供できるダンスホールやキャバレー、飲食店ができ、パリからの人々でにぎわったそうです。

20区と同様19区1も、ユダヤ系ドイツ人、フランコ独裁政権時のスペイン人、その他イタリア人やポルトガル人、ユダヤ系トルコ人、アルジェリア人やピエ・ノワールなどの移民が入ってきました。現在では、これらの出身者以外だと主にマグリブ諸国のアラブ系や(サハラ以南の)アフリカ系の他、13区のトルビアック通り界隈と同様、中国系(華僑系)の旧仏印出身者もベルヴィル界隈で見られるようになり、「パリのアジア人地区 (Quartiers asiatiques de Paris)8」いわばパリの中華街とも言われているそうです。

パリ20区

妻ミリアムの友人エマはパリ20区1に住んでいます。第二次大戦ころドイツなどから逃れてきたユダヤ人をはじめ、スペイン人、イタリア人、マグレブを含むアフリカ系の人々、フランス領インドシナ1(現ベトナム、ラオス、カンボジアあたり)の人々など移民が多くあまり治安のいい地区とは思われていないようです。

近くの小学校といったら、それは悲惨なの。子供たちは地面に唾を吐くし、子どもたちが集まっている横を通り過ぎると、お互いに、売女とか尻軽女とかホモ野郎とか呼び合っているのが聞こえてくるの。

様々な生い立ちをもつ小学生とフランス語の先生の交流を題材にした映画『パリ20区、僕たちのクラス9,9』は、2008年の61回カンヌ映画祭10パルムドール賞(最高賞)を受賞しています。

パリ郊外 セーヌ=サン=ドニ県

ミリアム(ヌヌ;ベビシッター)が、借金を残して死別した夫と、家出した娘と一緒に住んでいた小さな家はパリ郊外のセーヌ=サン=ドニ県ボビニー1にありました。隣接するパリ19区と同様、所得の低い地域です。

あるベビーシッターは、既に市民権を得ている男性と結婚します。結婚式はセーヌ=サン=ドニ県のノワジー=ル=セック1の市役所でした。男性の友人のレストラン「アガディールのガゼル」で披露宴が行われます。アガディール1はモロッコの都市、ガゼル1はアフリカの鹿のような動物ですから新郎新婦ともマグレブという設定とも推測できます。移民が現地の同族と結婚するのは、この地区ではよくあることなのかもしれません。

ベルギーとの国境 アルデンヌ県

妻ミリアムが弁護士をめざすきっかけになったのは、アルデンヌ県1のミシェル=フルニレ事件1です。この実在の事件は、1987年から17年間にわたって若い女性を少なくとも7人以上殺害した連続殺人事件で、ミリアムは、パリから200キロ離れたアルデンヌ県の県庁所在地シャルルヴィル=メジエール1に部屋を借り裁判の行方を見守ったものでした。

この事件の犯人の父親はアルコール依存症の金属加工労働者とのことですが、1980年までに不況のあおりをうけ県内の金属加工業者は閉鎖においこまれた背景もあります。1860年代以降、高い失業率で人口流出が続いています。

パリのマグレブ人

ミリアムはマグレブ人という設定ですが、マグレブ1は「日が没すること、没するところ」「西方」の意味を持つ言葉で、フランスの旧植民地であったモロッコやアルジェリア、チュニジアなどのアフリカ大陸北部地区を指します。2008年の統計ではフランスの移民の26.6%がマグレブ人だそうです1

1950年代のフランスの高度成長期以降、マグレブからの移民の流入は継続しており、定住して2世3世としてフランスで暮らしています。被差別などもありながら、フランス人としてあるいは、マグレブ系フランス人、あるいは郊外移民系フランス人などのアイデンティティを形成しています。11,12

妻ミリアムは、移民同志の言語(アラビア語)や宗教による結束をうとましく感じている設定で、自分の子供をマグレブ人にまかせたくないと発言しています。弁護士という職に就くことができている第二世代のフランス化した移民と、ベビーシッティングの仕事をする最近の移民に格差ができている世相が反映されているのかもしれません。

Leïla Slimani (21e Maghreb des Livres, Paris, 7 et 8 février 2015).jpg

作者のレイラ・スリマニ1の祖母はフランス人の作家で、第二次大戦時に原住民部隊として徴用された夫と結婚しモロッコで無料診療所を立ち上げました。その娘であるレイラ・スリマニの母はフランスで教育を受けたモロッコ出身の夫と結婚しました。レイラ・スリマニ自身は幼少からフランス式の教育を受け、哲学を学ぶためパリにやってきました。2014年33歳の時に処女小説『Dans le jardin de l’ogre(鬼の庭で)』でデビュー、本作は2作目です13,14。本作で、創設から113年間の歴史を誇るゴングール賞を受賞しました。女性作家では12人目、マグレブとしては2人目の受賞でした。


 

  1. ウィキペディア(日本語)ゴングール賞
  2. 坂男トップページ >フランス > 【2017年度版】パリの地区別危険度が一目で分かる治安マップを公開。治安の良い・悪いエリアを知りパリ旅行のホテル選びや旅行プラン作りの参考にしてください。
  3. フランス福祉国家の変容と子どものケア –「 アジ ア化するヨーロッパ」仮説の検討- 落合 恵美子,京都社会学年報 : KJS = Kyoto journal of sociology (2016), 24: 17-55,2016-12-25,URL http://hdl.handle.net/2433/219502
  4. 和田博文真銅正宏竹松良明宮内淳子和田桂子 『パリ・日本人の心象地図 1867-1945』、藤原書店、2004年、p.282-283.
  5. ウィキペディア(日本語)15区(パリ)
  6. エイビーマガジン > 現地ガイド記事 > 観光客になじみの薄い15区にあえて行ってみよう
  7. Félix Rochegude, Promenades dans toutes les rues de Paris. XX arrondissement, Librairie Hachette, Paris, 1910, page 30, consultable dans  http://fr.wikisource.org/wiki/Page:Rochegude_-_Promenades_dans_toutes_les_rues_de_Paris,_20.djvu/34
  8. Wikipedia(English)Quartier Asiatique
  9. ウィキペディア(日本語)パリ20区、僕たちのクラス
  10. ウィキペディア(日本語)第61回カンヌ映画祭
  11. フランスにおけるアラブ系移民の同化 ~マグレブ移民のフランス社会への同化の軌跡から次世代の移民を考える~毛利 恵美
  12. フランス人と移民の間で 与えられたアイデンティティとマグレブ系移民第二世代の自己主張 ,植村 清加
  13. Wikipedia(English)Leïla Slimani
  14. アンスティチュ・フランセ東京 > イベント > フランス語・書籍 > 読書の秋 2018 > 対談 レイラ・スリマニ × 桐野夏生

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