16世紀イギリス・フランスの統治者と宗教改革

Yukipedia

16世紀イギリス・フランスの統治者と宗教改革

(1517年)まだ宗教改革は一部でしかなく、各国の王族は基本的にはカトリック

 

(1533年)イングランドのヘンリー8世が、男児を産んでいないキャサリン王妃を離婚しようとしました。けれども、キャサリン王妃はスペインや神聖ローマ帝国などカトリック勢力圏の縁故が強く、ローマ教皇が認めなかった為、ヘンリー8世はイギリス国教会を設立して、キャサリン王妃を追放し、愛人アン・ブーリンと結婚しました。

 

(1558年)スコットランドのジェームズ5世の娘メアリが、君主を継ぎスコットランド女王に。フランスで育ちフランス王太子妃となりました。祖国スコットランドは故ジェームズ妃でメアリの母であるフランス出身のメアリ・ド・ギースが摂政として統治するも、プロテスタントが台頭。
イングランドでは、ヘンリー8世とスペイン出身のキャサリン妃との娘メアリー1世がイングンド女王になり、カトリックとしてプロテスタントを弾圧。

 

(1560年)イングランドではメアリー1世女王亡き後、ヘンリー8世の娘エリザベス1世が女王になり、父のイギリス国教会を踏襲しています。
フランス国王が死去し、未亡人となったスコットランド女王メアリーが帰国。本人自身はカトリックでしたが、プロテスタント勢力が強く融和策を模索。
フランスはアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの息子のシャルル9世が即位しました。カトリック王でありながら、プロテスタント(フランスではユグノー)であるコリニー提督の影響を強く受け、カトリックの危機感などから宗教対立が激しくなり、王族や貴族も対立しました。

 

(1564年)スコットランドのメアリー女王は廃されイングランドに亡命しています。息子のジェーム6世がスコットランド王位を継承しました。イングランドのエリザベス女王は後に、カトリックや王位継承などの自分自身の反対勢力として担がれるメアリーを処刑します。
フランスでは 宗教対立が激しさを増したため、カトリックの王妹マルグリッド(マルゴ)とユグノーのナバラ王アンリの結婚により融和を図ります。ところが、まさにこの結婚式の日にカトリックがユグノーを皆殺しにするサン・バルテミーの大虐殺1事件が起こりました。

 

(1589年)スコットランド王ジェームズ6世が子のいなかったエリザベス1世の後を継いでイングランド王ジェームズ1世1となり、スコットランドとイングランドは統一されグレート・ブリテン王国となります。宗教的にはカトリックとプロテスタントの両極を廃し、エリザベス1世のイギリス国教会1を支持します。
フランスでは、アンリ3世なき後、ナバラ国王エンリケ3世がフランス国王アンリ4世1となります。父はカトリック、母はプロテスタントであったこの王は、宗教改革やフランス王室との関係の中で人生に何度も改宗しており、強固に信仰を貫くというより現実派であったようです。「ナントの勅令1」を発布し、制約はあるものの信仰の自由を認めました。


 

  1. ウィキペディア(日本語)サン・バルテルミの虐殺

コメント