『THE TUDERS』Season3

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『THE TUDORS〜背徳の王冠〜』Season3

THE TUDORS〜背徳の王冠〜1(2007~2010年)アメリカ・カナダ・アイルランド・イギリス合作。
(サイト内リンク)『THE TUDORS〜背徳の王冠〜』Season1Season2Season4

シーズン3 ( )は原題と訳

第1話 反乱の狼煙 (Civil Unrest 市民の動揺)

ヘンリー8世の宗教改革

➤ヘンリー8世とクロムウェルの宗教改革の一環としてカトリックの修道院を解体しました。修道院にため込まれていた宝物が大量に見つかりカトリックの腐敗が明るみになったものの、その財産を全て没収して王のものとし、十字架や像を破壊しました。
➤更に増税が王室の財政に寄与しましたが、民衆の反乱を招くことになりました。他にも、カトリックのキャサリン王妃を離婚してアンと結婚したことや、アンを処刑したこと、貴族でもないクロムウェルによる弾圧という複雑な感情、天候不順による農作物の不作と経済的困窮、息抜きであった宗教上の祝祭日の廃止や飢饉のセーフティネットとなっていた修道院の廃止など様々な要因が積み重なり民衆の不満が爆発したものでした。
➤ソーリー修道院2などの破壊をきかっけに、北部のヨークシャーから巡礼と称した民衆が「グレースの巡礼3」とよばれる反乱を起こしました。リンカーン大聖堂の占拠は、サフォーク卿ブランドンにより鎮圧されましたが、更に広範囲の抗議反乱を引き起こしました。

教皇が反乱の情報を得る避暑地として登場するガンドルフォ城は、現在も教皇の特別領土で博物館になっています。

第2話 恩寵の巡礼 (The Northern Uprising 北部の反乱 )

フランシス・ブライアン母子

サー・フランシス・ブライアンは、ヘンリー8世と放蕩をともにした友人の政治家で、外交官、提督などをつとめました。アン・ブーリン、キャサリン・ハワード、ジェーン・シーモアの遠縁でした。若いころの馬上試合で片目を負傷し、眼帯をつけています。妹がヘンリー8世の愛人だった時期もあるといわれています。4

マーガレット・ブライアン5は、エドワード王子のガヴァネスでしたが、メアリー王女、エリザベス王女、庶子のヘンリー・フロッツィのガヴァネスだった時期もありました。三度の結婚のうち二度目の夫との息子がサー・フランシス・ブライアンです。父方の曾祖母グロスターのアンを通じてプランタジネット家の血が流れており、アン・ブーリンやキャサリン・ハワードの母方の叔母でもありました。

第3話 国王の報復 (Dissension and Punishment 不和と処刑)※2009年エミー賞・撮影賞

ヘンリー8世の愛人でホルバインにセミヌードの肖像画を描かれているUrsula Missledonは架空の人物6。ヘンリー8世の乱脈ぶりとホルバインへの寵愛を描くねらいでしょう。

マーガレット・プランタジネット・ポール(ソールズベリー女伯)

レディ・ソールズベリーと呼ばれる女伯爵マーガレット・ポールは、ヘンリー8世の母の従妹で、メアリー王女の幼少期の保護者でした。ヘンリー8世を首長とする英国国教会の司教の地位を拒絶し、ローマカトリックの枢機卿となったレジナルド・ポールの母でもあります。

レジナルド・ポールは、プランタジネット朝末裔のマーガレット・ポールの末子で神学者、当初はヘンリー王と友好な関係を築いて支援を得て留学していましたが、アン・ブーリンとの結婚や修道院への弾圧に関連して敵対するようになり帰国できなくなりました。ローマで枢機卿に任命されます。7

マーガレット・ポールは2年半ロンドン塔に幽閉されたのち裁判もなく処刑されました。レジナルド・ポールの裏切りに加え、プランタジネット家の末裔としてキャサリン王女擁立や、北部地域の反対勢力などのよりどころとなる事を恐れられたためとも言われています。
処刑時に関して複数の駐英大使の報告が残っています。最後まで反逆罪を認めず、処刑を拒否したそうですが、ドラマや小説では最後の言葉を“No!No!”との叫び声としているものも少なくありません。

(サイト内リンク)The King’s Curse Philippa Gregory著
マーガレット・ポール(ソールズベリー夫人)の視点で、キャサリン・オブ・アラゴンとプランタジネット家の没落を描きます。

アン・シーモアは、ジェーン・シーモア王妃の兄エドワードの妻です。TVドラマでは前妻のキャサリンも反映させているそうですが、フランシス・ブライアンと不倫するなど、奔放な性格に描かれています。8

第4話 失われた光 (The Death of a Queen 女王の死)

ブチェンタウロ

ヘンリー8世がジェーン妃の戴冠のために、新造するというブチェンタウロ7は、ヴェネツィア共和国の総督(ドージェ)が毎年の祭りで乗るガレー船。祭りのコンセプトは海との結婚。

第5話 改革の揺り戻し (Problems in the Reformation 改革における問題)

キャサリン・ウィロビー(サフォーク侯爵夫人)母娘

キャサリン・ウィロビー9は、ヘンリー8世の寵臣チャールズ・ブランドンの4番目で最後の妻です。二人の息子を設けましたが幼い時に相次いで亡くなりました。
➤7歳で父をなくし男爵位と財産を相続しましたが、ヘンリー8世はブランドンを後見人としました。ブランドンの妻ヘンリー王の妹メアリー・チューダーにより、二人の長男ヘンリー・ブランドンと婚約しました。メアリーを通して、当時男児のなかったヘンリー8世王の甥にあたるヘンリー・ブランドンは王位継承の可能性もありましたが、1534年に10歳あまりで夭逝しました。(メアリー王女18歳、エリザベス王女1歳、ヘンリー王庶子ヘンリー・フロッツィ15歳、ヘンリー王甥スコットランド王ジェームズ5世22歳)
➤1533年、メアリー・チューダー死亡の6週間後に、ブランドンはキャサリンと結婚し、その後2人の男子を設けましたが、二人とも病気で夭逝しました。

  • 1528年 ブランドンがキャサリン・ウィロビーの後見人となる
  • 1532年12月14日 ヘンリー王とアン・ブーリン秘密結婚
  • 1533年1月25日 ヘンリー王(42)アン(32)プライベート結婚式
  • 1533年5月 キャサリン・オブ・アラゴン王妃(46)との結婚無効宣言
  • 1533年6月1日 アン戴冠式(チャールズ・ブランドンが戴冠式責任者)
  • 1533年6月25日 メアリー・チューダー(37)死去 7月20日葬儀(キャサリンは喪主の一人)
  • 1533年9月上旬 ブランドン(49)とキャサリン・ウィロビー(14)結婚
  • 1533年9月7日 エリザベス王女誕生

➤ヘンリー8世の6番目で最後の妻キャサリン・パーと親友でもありましたが、ブランドン61歳亡き後、ヘンリー8世54歳がキャサリン・パー33歳と離婚して、ブランドン未亡人のキャサリン26歳との結婚を望んだという噂もあるそうです。キャサリン・パーが産褥死した後、その娘を引き取りましたが早世しました。
➤ブランドンの死後、執事と結婚し娘をもうけました。そのころはメアリー女王の時代でプロテスタントは迫害されていたので、家族で亡命し、亡命先で男児を産みました。ポーランドのジグムント王の招きでリトアニア知事を任され、メアリー女王の死後に帰国しました。
➤エリザベス女王の治世では、許可を得ず結婚した義理の孫娘メアリー・グレイの若い女性としてのしつけを任されました。

キャサリンの母マリア・デ・サナリス9はヘンリー8世の最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンがスペインから女官として連れてきた王室縁戚の娘です。キャサリン14歳の渡英と同時とすれば、11歳でした。
➤1516年に26歳で英国男爵ウィリアム・ウィロビー1034歳と結婚した際(ヘンリー8世25歳、キャサリン・オブ・アラゴン29歳)にグリムスソープ城10が与えられた他、1535年に新造された軍艦に彼女の名が冠されました。11ヘンリー王が彼女を尊敬していたといわれていますが、キャサリン・オブ・アラゴンとの関係が悪くなっている時点での命名は、「愛人にしたかった」「キャサリン・オブ・アラゴンへの連絡を禁じたマリアへの気持ちの懐柔」「マリアの娘キャサリンとその夫で親友のブランドンへの好意」王妃の件で敵対しているスペインに対して「スペイン娘を英国人として取り込んだというスペイン海軍に対する威嚇」逆に関係改善のための儀礼的な「スペインと英国の調和の象徴」などの理由が考えられます。
➤キャサリン・オブ・アラゴンの結婚が取り消される頃から、キャサリンに侍することを禁じられましたが、1536年キャサリンの死の直前に駆け付け看取りました。

(サイト内リンク)『愛憎の王冠 The Queen’s Fool』Philippa Gregory>宮廷道化師
「会えるのはソマーズだけ」「ウィル・ソマーズ?道化の?あれが話し相手?」

第6話 妃を求めて (Search for a New Queen )

ヘンリー8世の妃候補

マリー・ド・ギース71515年生まれ(当時22歳)。1537年に最初の夫と死別。翌年スコットランド王ジェームズ5世25歳(ヘンリー8世の甥)と結婚。
ルイーズまたはルネ マリーの妹たち(17歳、15歳)イングランド側は妙齢で体がしっかりしており息子を出産した経験のあるマリーを希望しましたが、スコットランドへ嫁ぐことが決まっており、フランス側は妹を推しました。

マルグリット・ド・フランス71523年生まれ(当時14歳)フランス王フランソワ1世の王女。幼少時にクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世)と婚約、1538年にフィリップ(のちのメアリ女王夫フェリペ2世)と婚約するも、どちらも結婚には至りませんでした。同時にアンリ王子をヘンリーの娘メアリー王女と婚約させ更に強固な縁組とする案もありました。

クリスティーネ・デ・ダヌマルク(デンマーク)1521年(当時16歳)7ドイツ人でイングランドの宮廷画家ホルバインが肖像画を送りました。4歳年下のヘンリー8世の庶子ヘンリー・フロッツィの花嫁候補となったこともあります。
ヘンリー王の最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンは母方の大叔母に、神聖ローマ皇帝は叔父にあたります。カトリックとして育てられ、1533年にミラノ公と結婚しますが35年に死別しました。
ヘンリー8世の妻たちの死亡を知っており、イギリス大使に「頭が二つあるならヘンリー王と結婚するがあいにく一つしかないので」と断ったという逸話もドラマに描かれています。

アン・オブ・グレーヴス7(当時22歳)ベルグ(ネーデルランド)公女。プロテスタント。
ドラマでは、ミラノ公未亡人クリスティーネがカトリックと知ったクロムウェルが、プロテスタントの候補者を無理やり探すいきさつが描かれています。
アマリエ12アンの妹(当時20歳)。肖像画からアンを選んだとも、より財産相続に有利な長女を選んだとも言われています。13

第7話 愛なき婚姻 (Protestant Anne of Cleves クレーヴスのアンはプロテスタント)

ヌーベルグ公フィリップ

ヌーベルグ公フィリップ14(36歳)は、アン・オブ・クレーヴス(24歳)の遠縁です。神聖ローマ皇帝に対するドイツ系王子とイングランド王女の結婚による同盟を模索するため、1539年にイングランド宮廷を訪問しました。プロテスタントの王子とカトリックの王女でしたが、フィリップ王子は本心からメアリー王女(23歳)に惹かれたと言われています。ヘンリー王はアン・オブクレーヴスと離婚し、フィリップ王子も帰国しました。その後も何度か王子は英国を訪れましたが、結婚は実りませんでした。

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第8話 哀れなしもべ (The Undoing of Cromwell クロムウェルの破滅)

Season3の主な登場人物

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  1. ウィキペディア(日本語)THE TUDORS〜背徳の王冠〜
  2. Wikipedia(English)Sawley Abbey
  3. Wikipedia(English)Pilgrimage of Grace
  4. Wikipedia(English)Francis Bryan
  5. Wikipedia(English)Margaret Bryan
  6. Wikipedia(English)List of The Tudors characters
  7. ウィキペディア(日本語)レジナルド・ポール
  8. Wikipedia(English)Anne Seymour, Duchess of Somerset
  9. Wikipedia(English)Katherine Brandon, Duchess of Suffolk
  10. Wikipedia(English)William Willoughby, 11th Baron Willoughby de Eresby
  11. Wikipedia(English)English ship Mary Willoughby
  12. Wikipedia(English)Amalia of Cleves
  13. M. Warnicke, Retha (2000). The Marrying of Anne of Cleves: Royal Protocol in Early Modern England. Cambridge University Press
  14. Wikipedia(English)Philip, Duke of Palatinate-Neuburg

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