漢の後宮

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漢の後宮

前漢

太皇太后(皇帝の祖母または先先代皇帝の正妻)
皇太后(在位中の皇帝の嫡母、嫡母が亡い場合は生母)1
皇后(皇帝の嫡妻)、夫人(皇帝のしょう(側室))

太祖(劉邦)夫人の等級

美人、良人、八子、七子長使(上級小間使い)、少使(下級小間使い)

史上初の皇后となった呂后とその一族が権力を握ります。則天武后と西太后と並び、中国三大悪女ともいわれますが、治世などには2賛否両論があります。

劉邦は秦を攻略い成功しましたが、樊噲や張良にいさめられ後宮には手はつけませんでした。

中国史には前漢、後漢のほか、後世に、蜀漢、(五代)後漢、北漢、南漢、陳漢などと名付けられた王朝がありますが、これらの自称は「漢(または大漢)」で、劉邦の漢王朝の後継国家と自ら位置づけていました。

前少帝の太皇太后

呂后が皇帝の祖母として史上初の太皇太后となりました。

景帝の最初の皇后

父、文帝の生母、薄氏の一族の女性で、中国史上初の皇太子妃で初の廃后

武帝夫人の等級

婕妤しょうよ(敏捷でスマート&のびやかの意)、娙娥、容華、美人、八子、充依、七子、良人、長使、少使

武帝が李夫人を寵愛した故事から「傾国」という語が生まれたそうです。

武帝の臣下、司馬相如の妻、卓文君は才色兼備で知られています。戦乱で人口が激減していた漢初期には婚姻が奨励されていました。15歳から30歳までの未婚の女性には独身税が科されていたほどです。文君は地元の大家同志の結婚として程家に嫁ぎ、琴の名手であった夫からてほどきをうけました。夫に先立たれ18歳で未亡人になった文君が駆け落ち同然に再婚した相手が司馬相如です。名門の生まれで文才はあったものの官職にはついておらず不遇をかこっていました。実家の父、卓王孫にも勘当された新婚夫婦は酒家(居酒屋)を開きました。今度の夫からも手ほどきをうけ、詩も琴もよくする美女が経営する店は大いに繁盛しました。後に、父の勘当もとけ、夫は武帝の宮廷文人となり、めでたしめでたし。

中国美人伝 (中公文庫)陳 舜臣 著)
卓文君のほか、呉の西施、王昭君、羊献容、せっとう、明代の萬貴妃、清代の菫妃など7人の美人について書かれています。

元帝夫人の等級

昭儀(宰相・諸王クラス)、婕妤(上級大臣・上卿・列こうクラス)、娙娥、容華、美人、八子、充依、七子、良人、長使、少使、五官、順常・無涓・共和・娯霊・保林・良使・夜者(皇后含め全14等級)

成をいさめた朱雲が、ひきずりだされる際にしがみついた欄干が折れた故事が「折檻」の語源となりました。

成帝『趙飛燕外伝 』

『趙飛燕外伝』3は、成帝と、その寵愛を争った趙飛燕姉妹を描いており、平安時代の女流文学にも影響を与えたともいわれています。

王莽 帝位簒奪

外戚の王莽が、前漢の最後の皇帝平帝より王位を簒奪し、前漢を滅ぼしました。王莽は「新」を建国し皇帝となりましたが、1代限りで滅亡しました。

後漢

後漢の短命な歴代皇帝は、三つの勢力に囲まれていた。「内廷」の外戚と宦官、「外廷」の臣下である。三つの勢力のどれか一つが強くなりすぎると、皇帝の地位を奪われかねない。

初代 光武帝後宮の等級

皇后、貴人、美人、宮人、采女さいじょ(全5等級)

光武帝は、太祖(劉邦)の正妻、呂后を廃后し、文帝の生母で側室の薄氏を皇后としました。財政状況から後宮は縮小しました。

眉を赤く染めた赤眉軍は、帝位を簒奪した王莽、劉備玄徳を破りましたが、光武帝に降伏しました。

第6代 景帝の後継

劉備玄徳など子孫が多く、日本の渡来氏族の漢氏も景帝の子孫で後漢の霊帝の末裔を称しています。
劉という姓にあやかり、劉玄、劉秀、劉盆子、劉章など劉姓の実力者が自政権を漢(後漢、北漢、南漢など)と称するようになりました。

成帝時代のファッション

留仙裙4(仙女を引きとどめるスカートの意)は、スカートを裂いて縄状に編んだファッション

霊帝の宦官 十常侍

霊帝の継室は食肉業者の娘、男子を所生した皇后何氏でした。何皇后は男子を所生した側室王氏を毒殺し、その子は霊帝の母后董氏に養育されます。外戚は、士族を手を結んだ何氏派と、宦官と手を結んだ董氏派とにわかれ敵対しました。

霊帝の有力宦官の集団は十常侍と呼ばれます5。十人より多い時期もありましたが、数が多いという意味でこの呼び方が使われます。

前漢は外戚、後漢は宦官によって滅亡しました。

  1. 皇太后 – Wikipedia
  2. 呂雉 – Wikipedia
  3. 飛燕外伝 – Wikipedia
  4. 留仙裙_百度百科
  5. 十常侍 – Wikipedia

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